哲学は存在とは何かを問うラディカルな学問である。存在論への積極的なアプローチは、アリストテレスから始まったといえる。
しかし、スコラ哲学によって、哲学の内容の多くは認識論が占めることになった。それはカントに始まるドイツ観念論もこの認識論が主としたものであった。いかに物事を解釈するかという点は、デカルトやイギリス経験論にその水脈を見ることができるが、これらを総合したカントの問いはヘーゲルの絶対的な体系化によって更なる高みへと到達したのである。
そのような山塊に抗した哲学者は複数いる。ヘーゲルの体系化に新たな認識論として抗したのがショーペンハウアーであり、宗教的解釈の観点から抗いを見せたのがフォイエルバッハであり、社会科学の側面から立ち向かったのがマルクス・エンゲルスであった。
このショーペンハウアーの認識論から、哲学の主流から離れていた存在論を組み込んで論じたのがニーチェである。そして以降ようやく知れ渡るようになるキェルケゴールは、まさしく宗教からの存在論を展開したのである。このニーチェとキェルケゴールの生み出したものが、存在論を哲学における最重要の論点へと再復興させた実存主義であった。
この実存主義は、彼らの後、フッサールによる現象学の創始によって更なる増幅が可能になった。現象学は一見して人間の認識に関わる思考法であるが、その究極はここにある存在を裏付けるための要点を多く提供している。
このフッサールによる実存主義への余波は、ハイデガーに『存在と時間』を著させることになるのである。この時期の考察が長き哲学史の中における存在論のクライマックスであったように私は思う。
そして、ハイデガーの影響はフランス現代思想において多様な方法で具現化し、サルトルの『存在と無』によって、哲学史における存在論の終焉を意味した。サルトル『存在と無』は世界的な実存主義の隆盛を誇示するように言われているものの、まさに哲学における存在論の歴史に幕を下ろしたと言っても過言ではない。
この著作以降、50年以上経つ中で、比肩し得る存在論著作は誕生していない。そのため、哲学史全体を展望した上でも、史上最後の哲学者サルトルと語られることが多い。だから待ち遠しい。新たな実存主義たる著作が。いや、錯誤的の名の下に、もはや二度と目に出来ないかも知れない。