| 社会運動と社会主義・共産主義2 |
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| 2008年10月26日(日) 18:33 [ ] |
リーデルはそのようなマルクスの試みを「マルクスの経済的政治的《市民社会の解剖学》」と称している。その評価と並び称されているのが、近代的《社会概念》を総論的に考察したローレンツ・フォン・シュタインの『一七八九年から今日にいたる社会運動史』である。それはすなわち、「社会概念はマルクスの場合と同じく労働と資本所有の関係に基礎づけられているが、ここではヨーロッパ歴史的過去を現在化し、また現代をその社会的構造のうちに露出させる装置になっている。ヨーロッパの社会と歴史の連続性とこれに属する概念の連続性は、シュタインによって歴史的転換期として経験された近代的社会運動のうちでは、革命前ヨーロッパの《封建社会》、革命期の《公民社会》、および1830年以降の《産業社会》という三組の現象に分かれる。第二と第三の社会タイプの間に《国民経済的社会》が位置するのであるが、これは、古い市民的(「封建的」)社会のもつ法的区別の止揚からでてきて発展し、法の前に自由で平等な市民の統一を、所有と非所有の区別によって再び引き裂いてしまう。この社会は、《公民》社会を、―シュタインにとって現代の決定的な社会構成体である、《産業的》社会へと変形する」という修練された内容を含んでいることが分かる(138)。つまり、シュタインは《社会概念》に含まれる〈市民社会〉という術語を重視していないのである。いわば、ここから、「シュタインが保持しよう努めるのは、人格と所有権という〈市民社会〉の原理であり、個人の自由であって、この自由が所有者からなる支配的階級による資本所有へと変質することは国家の手によって阻止されるべきなのである」ということが明確となる(139)。
市民社会から《政治的国家》へというへーゲルが求め、若いマルクスが捉えなかった止揚に代わって、シュタインは、ただ国家と社会の間の均衡が必要であるとしている。シュタインは、《政治的》国家ではなく、《社会的》国家、「社会的民主主義」の必要性を追求しているのである。
リーデルは「19世紀後半のドイツに特徴的な、教養の伝統と古い自由主義と保守的な国家思想の絡み合いのなかで、市民社会という概念は最終的に、その価値が総括的に引き上げられ、また政治的に現実化された」と表現している(140)。そして、市民社会概念の術語の利用を把握するのに最も注意を要したとされるドイツ、そのドイツの近代以降の術語使用についてリーデルは以下のように説明している。
ヴィルヘルム二世時代の市民社会は、社会民主主義ないしは1850年以前のフランスの社会理論家の論争的イデオロギー的意味での《ブルジョワ社会》とは理解されえなかったし、またこのような理解を欲、したわけでもないが、しかしこの市民社会は以前の非イデオロギー的概念に―たとえ初期自由主義の形態にすぎないにしても―立ち戻ることもまた不可能であった。このかぎりにおいて、伝統的政治学の学術用語から採られた術語を「階級秩序」へ解釈しなおすことは、1871年の国家の枠内でのドイツ社会の歴史的状況および言語上の関連体系の変遷を簡潔に表現している。そして、ビスマルク国家の《階級秩序》という意味で、この概念は1914年にいたる時期において国家自由主義的ドイツ市民層の大部分によって受け入れられ、使用されたのである。(141)
これに対して、ドイツ社会民主主義における体系的枠組みと用語使用の概念史的パースペクティブの狭険化が対応するのであって、この代弁者たちは、―マルクスとエンゲルスによる術語上の差異化とは異なって―市民社会を大まかに資本主義社会と同一視している。ビスマルク帝国とその階級対立の基盤上で、ラッサールのいう「労働者身分は市民社会を構成するいくつかの諸身分のひとつにすぎない」という命題はその効力を失った。(142)
一方では、ラッサールがフリードリッヒ・アルベルト・ランゲおよび60年70年代の《社会政策者》とともに、「国家」における市民社会の止揚、すなわち将来の《社会国家》あるいは《国民国家》における止揚を信じていたが、他方では、ルドルフ・フォン・グナイストが時代の社会危機を、二元論に代わる「国家と社会の相互関係」を内容となすべき《法治国家》を通じて克服することを望んでいた。こうした両派の言語的構想は、ヴィルヘルムニ世時代にあっては、階級秩序としての市民社会の社会的現実に照応してますますあい隔たっていった。《法治国家》の構想を《社会国家》によって媒介することは六〇年代にあっては可能であるようにおもわれ、また近代的市民階級と労働者階級の歴史的解放の論理上にあったように見えたが、実現はしなかった。市民社会の国家はこの間―ドイツ社会民主主義の理論家やレーニンが正しく認識したように《市民国家》になり、この市民的国家は第一次大戦、第二次大戦の激動とこれに続く社会革命の後になって、再びヨーロッパの解放運動の形成過程に入り込むことになる。(143)
ここに示される系譜は哲学、政治経済学を主たるテーマとした論点から素描されるものである。一方、社会学者、マックス・ヴェーバーは、社会科学の体系的構築をするさいや社会歴史的事実を解明するのに〈市民社会〉という術語の使用を全面的に差し控えるという帰結を引き出したとされている(152)。すなわち、リーデルは「〈市民社会〉はヴェーバーによってある種の決着を見たのであり、今日現存する《市民》社会と《社会主義》社会とのその「前史」からの事実上の遮断が(とりわけファシズムとスターリニズムという)政治的難問へと行き着いたからこそ、歴史的言語的相違を考慮した概念史の回顧的論考が必要なのであり、これなくしては過去と未来の間の緊張した場である現代の社会的状況に関する診断は不完全で、多くの観点からして不十分なものにとどまらざるをえない」(145)と考察している。
いわば、西洋における市民社会の概念史という稜線は、マルクスとマルクス主義による市民社会批判おいて一時的な終結を見る。リーデルは、「市民社会批判は、契約の図式に従って相互に同格とされ、法秩序の主体と定義なされている自立した諸個人という、自由主義的社会構想のもつ欠陥を鋭く摘出した。しかしその批判は、欠陥とともに同時に、個人の自由権を保証し、物質的社会的生活諸関係を区別し評価するための規範体系を保持するという、市民的自由主義的構想の長所もまた、放棄してしまった」(146)というように、マルクス主義の市民社会に対しての立場と特徴を論じている。
すなわち、市民社会の概念史という試みについてリーデルは「市民社会の歴史が古代にまで及び、近代の都市市民層の解放でもって初めて開始されるのではないように、この術語は、たんに歴史的に与えられた社会状態を記述するだけの概念を表わすのではなく、そうした社会状態で実現されるべき諸規範(例えば《権利》や《自由》といった)をも規定する概念を表わす。もちろん規範的な機能は、概念史上比較的遅い時期になって(カント以降)初めて明確となったのであり、その後、基本的権利が《市民的》立憲国家において実現されるに及んで、再び近代的経済社会や産業社会の事実的行為連関の背後に消え去ってしまう」(147)と述べて総括する。
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| 社会運動と社会主義・共産主義1 |
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| 2008年10月26日(日) 18:31 [ 哲学史 ] |
社会運動と社会主義・共産主義
リーデルが行った市民社会概念の収集作業において、社会主義・共産主義への着目は作業の工程が終わりに近づいていることを意味している。リーデルは「へーゲルによる概念形成が青年へーゲル派によって実際に解体されることはなかったし、学問的にさらに発展させられることもなかった。それは、マルクスとエンゲルスによって初めてなされたのであるが、彼らの市民社会批判はまったくへーゲルによって整えられた地盤のうえに育ったのである」(127)と指摘している。すなわち、マルクスの著作に「市民社会」が初めて使われるのは、1842年の『ライン新聞』においてであり、へーゲル学派を不安にさせた問題、下層民と貧困問題に関連した部分での使用であった。ここで、マルクスは市民社会の慣習として「貧しい階級の存在」を理解しているのみである。こうして「若きマルクスの言語使用も最初は、その概念を市民階層もしくはブルジョワジーへ論争的に転用するという、初期社会主義にしばしば見受けられるやり方から遠くかけ離れている」(128)。リーデルは、「『聖家族』(1844年)にいたるまで、彼には市民社会の本来の政治的意義が、例えばへーゲルに比べていっそう明確に意識されていたと言える。『ヘーゲル国法論批判』(1843年)ではマルクスは、社会と国家の近代的分離の対抗像として考えられ、〈市民〉社会と〈政治〉社会の失われた同一性を再構成するものとしての、中世「封建社会」の概念を展開している」(129)と分析し、一定の評価を与えている。すなわち、「中世の精神は次のように言い表わすことができる。市民社会の諸身分と政治的意義における諸身分は同一であった。なぜなら市民社会は政治社会だったからであ.る。というのも市民社会の組織原理は国家の原理だったからである。―市民社会の全存在は政治的であった。その存在は国家の存在であった。その立法活動、帝国に対する税承認は、それのもつ一般的政治的意義と効能のただ特殊的な発露にすぎなかった。その地位はその国家であった」ということである(130)。「へーゲルにあっては市民社会の《唯物論》(=エゴイスムス)の裏面であるもの、に対するマルクスの批判の鋭さが説明される。へーゲルは市民社会と国家の同一化に失敗して《必要国家、悟性国家》の自由国家への止揚、《私的地位》としての市民社会の国家の政治的地位への止揚は実現していない。」(131)とリーデルは捉える。そして、マルクスの認識する近代市民社会は《階級社会》であり、または―『ドイツイデオロギー』のなかの、初期社会主義の日刊紙から借用した表現では―《ブルジョワ社会》として理解されるのである。これらの理解に基づいたマルクスらの社会主義による市民社会概念について、リーデルは以下のように説明する。
市民社会はもはやただ国家に対しているだけではなく、労働者階級の解放で始まろうとする国家のない、未来の《社会主義的》社会や《共産主義的》社会に対立している。ここではある意味で、《人間的》社会に賛成し、へーゲル的な《市民》社会に反対する青年へーゲル派的意志表示が繰り返されているが、もちろん、マルクスは《実践的》(後には《史的》)唯物論へ移行することによって、彼自身の未来主義を政治経済学批判という方法論的補助手段を用いて歴史的に具体化することができたという違いはある。「古い唯物論の立場は〈市民的〉社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会あるいは社会化された人間性である。」《市民》社会を克服し、これを人類の前史へ追いやるべき《社会主義的》社会あるいは《共産主義的》社会のモデルとして用いられているのは、ひとりひとりの自由な発展が全てのひとの自由な発展の条件である協同のモデルである。これは市民的自由主義的な、契約の並列関係モデルとは正反対の着想である。(132)
このようなイデオロギー的政治的かつ歴史哲学的に規定された概念使用から、マルクスによるその概念の批判的学問的使い方は区別される。この使い方に従うと、問題となるのは、一七・一八世紀における中世の政治的精神的支配権力からヨーロッパ都市市民層を解放することによって形成され、いまや統一的国家市民層が様々な階級へ解体した後では、生産手段の私的所有に依拠する社会的組織形態・交易形態を意味している、時代を画する概念なのである。(133)
これらの説明に加えて、リーデルは、「これまでの全ての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またこれらを条件づけている交易形態は市民社会である。……この社会はある段階の全商業生活と産業的生活を包括し、そのかぎりで国家と民族を越えているが、他方外に対しては再び自己を民族として妥当させ、また内に向かっては国家として編制しなければならない」(134)という引用によって、商業生活を基底にした市民社会の様態について論じている。すなわち、このような概念定義を、マルクスは以後、時期的に限定し、その適用を市民層に支配された18-19世紀の近代的な社会だけに制限するのであった。更に、この概念を歴史的に位置づけるのに決定的な意味をもったのは、とりわけ、へーゲルとヘーゲル学派において強く残っていた、「富と所有一般に関する漠然とした説に取って代わって、国民経済学から得られた資本概念の把握と結びついた生産手段所有の機能を解明したことである。
市民社会の問題は、国家による媒介にあるのではなく、市民社会の《解剖学》であり、マルクスの意見ではこれは政治経済学に求められる」(135)という見解を提示しているのである。リーデルは、「政治を《物質的生活諸関係》へ方法的に還元することによって初めて、市民社会概念はマルクスの思考のなかで鍵となる機能を得るのであり、かくしてその概念はいまや逆に、現代社会の形態を《捨象》し、それに属する術語(生産手段、生産諸力など)も《過去の社会構成体》の開示のために利用されうるようになった」(136)として、生産手段や生産諸力といった労働に関しての観点が市民社会の概念化に包含されたことを指摘している。
加えて、リーデルはこれらの傾向を鑑みた上で、「市民社会は最も発展した、最も多様性に富んだ歴史的生産組織である。その関係を表現する範疇、その仕組みの理解は、それゆえ同時に、没落していった全ての社会諸形態の仕組みと生産諸関係の洞察を可能にする。というのも、これらの残骸と諸要素から市民社会が形成され、その部分的にいまだに克服されていない残澤が市民社会のなかに残存し続け、ただの輪郭にすぎなかったものが明確な意味内容へと発展していった等のことがあるからだ。人間の解剖学は、サルの解剖学へのひとつの鍵である」(137)と引用し、市民社会概念の傾向とその変化についての解釈を提示しているのである。
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| 市民社会の構造変遷・へーゲルとへーゲル学派 |
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| 2008年10月26日(日) 18:30 [ 哲学史 ] |
市民社会の構造変遷・へーゲルとへーゲル学派
へーゲルの『法哲学綱要』(1821年)によって、政治概念形成の歴史的体系的な重大な転換がなされることは自明の通りである。リーデルは、「アリストテレスからカントにいたる政治学の伝統の言語用法に従うと、国家は市民社会と名づけることができるが、それはこの社会がそれ自身すでに政治的に正市民(cives)の法能力および統治する支配権力へのそれの統合において構成されているからである。それに対してへーゲルは、国家の《政治的》領域を、社会のいまや《市民的》となった領域から区別する。そのさい〈市民的〉という形容詞はその本来の意味に反して、専ら《社会的》という意味で使用され、もはや〈政治的〉と同じ意味をもつものとしては使われない」とヘーゲルの市民社会の概念化の特徴を挙げている(116)。
へーゲルが術語の基準化を導入するときの基本命題は、市民的自由主義的解放の原理を、細分化した個々人という事実、政治的制度に妨げられない経済社会の私的市民という事実にもとづき定式化しており、この経済社会はここでいわれている意味での《市民》社会になるのである(117)。すなわち、「特殊な人格として自らが目的である具体的人格は、欲求の総体、自然必然性と恣意の混合の総体として、市民社会のひとつの原理である。しかし、これは、本質的には、他のこのような特殊な人格との関連における特殊な人格であり、それゆえ、各々の特殊な人格は、他の特殊な人格を通じ、また同時に、一般性という形式、このもうひとつの原理を通じて媒介されることによってのみ、自らを通用させ満足を得る。」ということである(118)。リーデルはこれらの状況について「経済的《欲望の体系》、私法的《司法活動》、および《ポリツァイとコーポレーション》による国家への政治的人倫的統合を基準とした内的編制を、へーゲルは、彼の時代の日常語や専門術語(国民経済学、法学、国家学)のもつ多少の差こそあれ明瞭な形をとった表象から出発して、政治革命や産業革命を経て出現したヨーロッパの社会と民族の状況を把握しようという意図のもとに展開していった」と説明している(119)。
ヘーゲルは、文化文明論的観点から教養社会としての市民社会の存在を正当化するが、この社会は盲目的な文化拒否(ルソー)と、同様に盲目的な文化擁護(例えば、アダム・スミスの近代国民経済学や産業体制の自由主義派における)の両極端の中間に位置する。その第三の段階では、この術語は、自然法の歴史的政治的な実在化過程、フランス革命以降のヨーロッパ諸国家の憲章における人間と市民の基本権の承認を基準化する。そして、この観点において、市民社会は法社会である。つまり歴史的に形成され、労働と教養に媒介された状態において、《人格》と《所有》の権利に定在を与え、したがって自由に普遍的承認を与えるような社会である(120)。すなわち、この社会にあっては、「人間が重んじられるのはユダヤ人、カトリック、プロテスタント、ドイツ人、イタリア人等々だからではなく、人間が人間であるからである」。最後に第四の段階では、市民社会は、「富の過剰にもかかわらず―十分に豊かではなく、貧困の過剰と下層民の発生をうまく制御できるほど市民社会固有の財産が十分ではないような」社会であると説明される(121)。
へーゲル学派の影響によって、術語のこのような規準化は、1830年以降、時代の言葉として採り上げられ普及する。へーゲルはこの規準化でもって、曖昧で無意味となってしまった以前の概念を明確にし取り換えようとする要求に応じたのだが、この規格化自身、異論の含む難題であった(122)。
へーゲル左派にとって、未来の課題は、国家の組織に続いて社会のよりよい組織をも考えることにあるとされる。この課題〔の解決〕が個別的また全体的にどこにあるのかは、論争のあるところであった(123)。アーノルド・ルーゲによると「それは、この組合において、《自由な労働者組合》へと市民社会を高めることにあり、その原理としての労働の完全な実現により、下層民の事実がおのずと消え去り、労働者が《市民》と平等で対等となるのである」という考えが唱えられ、加えて、「もちろん市民社会になって初めて人間的社会なのであり、構成員、つまり市民ないしは労働者を、貧困や奴隷状態にすらさらすような非人間的社会にあっては、自由はけっして導入されえない」という市民論が展開されている(124)。すなわち、へーゲル的な意味での市民社会の《政治的》国家ではなく、《社会的》国家あるいは「人間的な国家社会」なのである。これらの視点に対して、リーデルは「市民社会の段階はまたすっかり抜け落ちることもありうる。アウグスト・ツィースコフスキーによると、法哲学的社会哲学的発展においては、へーゲルのいうように、家族、市民社会、国家と続くのではなく、家族、国家、人類と続くのである。へーゲル的な媒介者の位置にいまや前三月の革命的危機にあって国家と社会の二元論が出現し、この二元論は青年へーゲル派においてはモーリッツ・ファイトが最も激しく説いているように、へーゲルの市民社会論を批判的に解体する」と指摘している(125)。そして、リーデルは「社会は(これでもって私はへーゲルが〈市民社会〉と呼んだものを理解しているのではない)国家をその前提とするが、社会は、国家の醗酵し、芽生え、駆り立てる内容であり、形を永遠に自ら産見出す生き生きした絵画である」(126)というアウグスト・ツィースコフスキーの言説を引用している。
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| 社会と国家が対立する構想の発起 |
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| 2008年10月26日(日) 18:28 [ 哲学史 ] |
社会と国家が対立する構想の発起
フランス革命を発端とした1789年の人権宣言が市民権規定に先行させている人間の権利は、旧市民社会の支配秩序を忘却させたと、リーデルは指摘する。加えて、この権利は、自然法にはそれほどよくは知られていなかった特定の社会権―まさにエンチクロペディストたちが市民社会と関連づけていた普遍社会の権利―をもくろんでいると解釈して、以下のような解釈を述べている。「1789から1795年の革命的過程は、本質的には、この両者を一致させようとするところにみられる。とりわけ第5条15と16で登場する《社会》は、再び〈政治社会(société civil ou politique ではなくて、association politique)〉として構成されるが、しかしいまやそれは、平等な市民(シトワイヤン)の至上の一般意志を基礎にしている。それは、旧《市民》社会を《国家市民〔公民〕》社会に変転させるが、これは従来の概念理解の完全な否定であるのがわかる。というのも、市民権および市民概念を原則的に社会の全ての人間へと拡大することは、このような形では歴史的にいまだかつてどこにも存在しなかったし、何にもまして、このようなことは、政治的および自然法的思考法の最も根本的な前提諸条件のいくつかとまったく相容れなかったからである。この点は、近代市民社会の解放でもって古代共和制の道徳秩序を実現するのだと考えた、フランス革命の革命家たちの意識にとっても、依然として隠されたままだった。社会権(人間性の権利)として、伝統的歴史的支配秩序を克服する人間の権利は、また同時に個人権利をももくろんでいる。〈政治社会〉は人間の自然権(droits naturels de l’homme)の堅持、すなわち自由(liberté)、所有(propriété)、および安全(sûreté)の堅持をその目的とする」(110)。ここに示される人権に関する解釈には、革命期の終わり以後、国家市民(政治)社会と(近代的な意味での)《市民的》社会との間で噴き出してくる矛盾が示されているのである(111)。
旧市民社会の《国家》からの《社会》の政治的解放について着目された当時の時勢において、この解放に関しての秀逸なる解釈者はフィヒテであるとされる。
18世紀の政治哲学とは異なるフィヒテは、「社会と国家の間にはっきりした境界線を引いているだけではなく、通常みられる両領域の交錯の根拠をも認識している」のである。『フランス革命についての公衆の判断を正すための寄与』(1793年)において従来の社会概念についての論述が覗える。フィヒテは、《社会》という概念を行使しようと試みるが、この概念はカントもなお自由原理の内容と射程距離について不明確なまま、法論の基にしていたソキエタス・キウィリスという契約構成とも一致しないという前例がある。いわゆる、「社会と国家の相違」を、フィヒテは、1790年代初頭における《市民契約》を変革することについての議論と関連づけるのである。フィヒテは、市民契約を変革する権利を―例えば人間「文化」の発展を通じて現われてくる―社会と国家の差異から生ずるものであると理解した。この差異を、フィヒテは抽象的自然法的な自然状態と市民的状態との差異と同等な関係であると認識している(112)。リーデルは、フィヒテが「革命への権利」を《社会と国家の相違》から導き出すことによって、伝統的歴史的な市民社会概念(ソキエタス・キウィリス)を乗り越えたと捉えている(113)。ただし、フィヒテは〈市民社会〉という言葉はまれにしか使用せず、登場する場合でもその言葉は、フランス革命によって解き放たれた《国家市民〔公民〕》社会の基礎を表現しているのである。リーデルはこの国家と市民の概念について以下のように説明している。
市民契約の不変性は人間性の規定に矛盾しているから、市民はその不当性を見抜くや、この市民契約を再び廃棄することができる。フィヒテは、古い市民社会の支配権に取って代わった、フランス革命の普遍的で平等な公民〔=国家市民〕権から出発する。フィヒテは、カントがフランスの公民概念(シトワイヤン)を法論に採り入れたにもかかわらず、まだ共同体の《構成員》としての市民と、共同体の「部分」としての《被保護者》との間にもうけた二義的な区別を斥けた。このことはとりわけ、フィヒテにはカントとは反対に、市民社会権への参加資格をえたひとつの自立した法領域としての《家》々という観念が知られていなかったことと関係している。「国家」と市民の問をもはや相対的に独立した支配権力が媒介するのではなく、ひとりひとりの「公民」とその「家族」が直接的に国家のもとにある。《全き家》がたんなる《身体の代償物》へ、《大きな入れ物》へと戻って形成され、このなかで、市民は、家主であれ《賃借人》であれ、自分の《所有権》を持ち、この《所有権》は他の《私的な》所有形態と原則的に区別されないのである。《家》の私化に対応しているのが国家市民概念の抽象的公的意味内容である。フィヒテは『自然法の基礎』(1796年)で、社会という概念を再び契約構成のなかで出現させているが、それでもなお、フランス革命を検討することで得た《国家市民〔=公民〕》社会の理念、《全て》の人間が市民として同等の権利と義務をもつという理念を、固持している。(114)
すなわち、カントにいたるまでの自然法による契約構成にとって根本的な意味をもっていた支配と《市民社会》との関連に基礎付けられた議論から、フィヒテの場合には《人格》と《所有》の関連として提示されることになる。リーデルはこれらの思考方法を鑑みた上で、フィヒテの問題点を指摘する。すなわち、「フィヒテは、公民契約のもとでの人格と所有に関する自由処分とともに、労働の交易、所有の交易、商品の交易という狭義の《市民的》領域が生まれ、この領域が《社会》という(《契約》だけではなく)特定の法則に従う新しい概念を形成してゆくことを見通してはいない。ここにおいてフィヒテは、社会的自発性という彼自身が初めて発見した契機を実り豊かなものにすることなく、むしろこの全領域を再び自然法的契約概念のもとに包摂してしまう」(115)ということである。
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| ドイツ観念論とフランス革命 自由主義的理性とカント |
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| 2008年10月26日(日) 18:22 [ 哲学史 ] |
ドイツ観念論とフランス革命
自由主義的理性とカント
「問題の脈絡をますます見失い空虚な区別立てに迷い込んでいる啓蒙主義哲学とは反対に、カントの市民社会理論は、その当初から従来の学派概念との対決を基礎に発展してきた」(97)というリーデルに指摘は適切であると考えられる。カントは、新しい自然法理論の言語を受容することから思考を開始する。カントは、「概念の法論への導入に際して、自然状態と、《市民的》状態によるそれの克服の必然性という方法上の擬制が援用されている。市民状態は、相互に孤立し法的に保護されていない諸個人を、法秩序のもとに統一し、たんなる人間の群れにたいしある種の政治的体制を与える。国民ひとりひとりが相互関係にある状態は市民社会( status civilis) といい、国民ひとりひとりの全体はその構成員に対する関係において国家(civitas)という、国家は、法的状態のうちにいる、という全ての人々の共通の利害関心によって結合されているという形態ゆえに、共同組織(ゲマインヴェーゼン、いうところのレス・プブリカ)と呼ばれている。国家がいまだに〈キウィタス〉と〈レス・プブリカ〉と特徴づけられているように、市民社会もまたソキエタス・キウィリスとして現われる」(98)というような各論を前提にした上で、市民社会に関しての論考が行われているのである。
先行者とは異なり、カントは、スタトゥス・キウィリスの市民社会がそもそも《社会》であるのかどうか、と問うている。《仲間》(ゲゼレ)の《仲間関係》や《並列関係》は、《従属関係》の政治的な理論や実践においては君主(統治者)もしくは一般意志のもとに後退せざるをえなかったからである。そして、「市民的連合( unio civilis)」を社会と認めていない。なぜなら、命令権者(imperans)と臣下(subditus)の間には仲間関係がないからである。この連合は、社会であるというよりは、社会を形成するとカントは捉えるのである(99)。
このカントの意見は、支配者と家臣の関係を新たに規定するだけでなく、市民社会を自然発生的な支配社会社会(不平等な社会)とする従来の解釈や市民社会を後期封建期の貴族世界の歴史的状態へ投影することを不可能にするものであった。すなわち、カントは「市民社会」という術語の従来の言語使用からはずれた基準化と、この術語に関連する体系とを展開したとされる(100)。この基準化は、「〔市民社会概念を〕自然状態の諸《社会》の段階的発展から導出すること、およびその概念を《支配と隷属》関係へ無批削的に適用することを排除する。というのもこの関係は、カント自身先行者と同意見で契約関係と見なしているが、契約の必然性、自由と強制の結びつき(《支配》)の理解がそこから初めて可能となるような法原理、すなわち《人間の権利〔人権〕》に基礎づけられているからである」(101)とリーデルは指摘している。リーデルは更に詳察する。
カントにおいては、自由と強制は、相互に対立する(近代的自然法)のでもなく、また市民社会によってもたらされた奴隷制との区別を根拠に正当化される(古典的政治学)のでもない。自由と強制は、「アプリオリに統一された万人の意志」(ルソーの一般意志)、すなわち実践理性による規範措定そのものから生ずる正当な(ひとりひとりの自由を可能にする)強制力という概念のもとに結び合わされている。この規範は、カントによれば、全ての社会的諸関係に正当性もしくは非正当性の基準として適用されるべきなのである。市民社会について語られうるのは、歴史的に与えられたある体制がこのような普遍的人権という規範的基準に相応しているときだけである。あるいはカントの言葉でいうと、一般意志を《実現》しているときだけなのである。「法の規則によれば、ひとりひとりの意志は、一般的かつ外的規則にもとついて自己自身と一致しなければならない。それゆえ、この意志はいわば全体のひとつの意志であらねばならない、そして共同体的意志の実現は市民社会なのである。」(102)
こうして《一般意志》が市民社会の規範になることによって、この概念は、体系上従来とは異なった機能を獲得する。ここに表現されているのは、もはや社会的法の実定性ではなく、北アメリカの革命とフランス革命とで始まる自然法の実定化の過程である。市民社会は、古典的市民的自由主義の理性理念であるアプリオリに統一された意志の現象として捉えられると、政治体制の「原因」というよりその結果となる。「市民的体制は、恣意的ではなく、他者の安全のための法を根拠に、必然的である。社会はまた、この状態の原因ではなく、結果である。法という実践的な至上の根拠が、社会をつくる。」(111)
カントは、古代からの系譜を持する市民社会の伝統的政治的支配形態(君主政、貴族政、共和政、あるいは民主政)を、動かざる彫刻であると捉える。習慣によってのみ存在し続け、社会の(市民的であれ、非市民的であれ)法的性格にとって何ら重要でないある体制の《機械組織》に数えているということである(103)。カントは、他方ではまたこの市民社会を歴史の法主体として解釈する試みを行っている。リーデルによると、カントは『世界市民的見地からの普遍的歴史へのイデー』(1784年)の第五命題において、「人間が自然に解決を迫られている、人類にとって最も大切な問題は、普遍的に法を司る市民社会の達成である」と述べていると伝えている(104)。
加えて、「万民法」との関連で、カントは《国家市民社会》(国家間にわたる市民社会)について論じている。そして、《国家市民社会》は諸《民族》の確立されるべき公的権利という理念を実現するための目的であると位置付ける。すなわち、「全ての民族の可能的統一をその交通(commercium)の普遍的法則に則って、理性理念において表わしている世界市民権との関連上で、《世界市民社会》が問題とされている」(105)といえよう。加えて、リーデルは、「カントの法論が〔市民社会〕概念に認めている普遍的位置は、彼の法論の基礎となっている人権の普遍性に対応している。この人権によって市民社会の自由主義的構想は、伝統的な政治哲学の限界を打ち破り、自由を、全ての人間の譲渡不可能な権利として承認し採り入れた。権利主体、《人格》であるという人間の本質が、いまや市民社会を規定するのであって、その反対に市民社会の法が《人格》を規定するのではない。こうして、《封建的》特権秩序と身分秩序、およびこの内部での《不平等な社会》と《支配》構造の法的可能性が脱落する」と捉えている(106)。そして、カントを引用し以下のように説明している「全ての社会は同質である。なぜなら、ある全体の全ての部分は相互に連関している。意志の統一には、どの意志も全体意志の一部分であり、それゆえ、各人は自らの意志を他の意志と結合しているかぎりにおいてのみ、全体意志によって統治される、ということが要求される。」そして「人間性に逆らう全ての契約は、本性からして用をなさず無効である」。このようにしてカントは、農奴制と世襲的隷従に異議を唱えたが、これらは人間の本質、人間の法能力に最もあらわに矛盾しているのである。六〇年代、七〇年代のこれに関する熟考では、只国家における)隷従とは、君主たちの契約である支配の下での支配のことであり、国家における臣下の間の相互関係ではない」(107)。
これらに基づいて、リーデルは、「カントは《市民》を《国家におけるひとりひとりの人間》へ拡大することに沿って、市民社会概念を《公民〔=国家市民〕社会》の意味で、すなわち法の前に自由で平等な人間の総体という意味で使用するのが論理的帰結であろう。」(108)としている。すなわち、カントの市民社会概念において再び現われる規範は、本質的にはカントの援用した独立性(自己充足 sibisufficientia)という述語〔概念〕によって引き起こされるのであり、これによりカントは、市民社会概念を再び伝統に沿って使用せざるをえなくなるのである。
カントの議論とその思想背景について着目した場合、そこには近代市民社会に関しての古典的自由主義的構想が含まれているということである。すなわち、これは「古い(《封建的》な)市民社会についての伝統的政治的構想に対しては二重の関係にある。それは一方では、アリストテレスにより規準化された市民社会《法》を採り入れるさいに、自由と支配の関係について、自由そのものを普遍的人権として市民社会に導入し、したがってヨーロッパ市民層の政治的解放をヨーロッパの歴史と哲学の連続性から正当化することによって新しい言い廻しを提供し、旧来の言語使用のもつ限界を乗り越えている。他方では、まさにこの連続性のもつ遅々として進まぬ要素に圧倒されている。というのも、政治的解放は個別的には、(自由は支配に結びつけられているので)、すなわち経済的諸条件によって抑制され続けているからである。カントによっても、また彼に続く自由主義的理論によっても熟考されなかったこの矛盾において、一九世紀の「社会問題」が燃え立つのである。それは古い自由主義が市民社会の生活への参加、《市民的人格》を否定しようとした社会層と階級に発した、ヨーロッパ社会における解放の歴史の閃光である」(109)とリーデルによって示されるように、カントの思考と大きな時代潮流との狭間において市民社会論の概念的に不明瞭な側面が現出したといえるだろう。
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| イギリス・フランス経済理論における市民社会概念 |
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| 2008年10月7日(火) 23:02 [ 哲学史 ] |
イギリス・フランス経済理論
先ず、リーデルはイギリス・フランス経済理論という主題に取り掛かる序論として興味深い指摘を行っている。「西ヨーロッパ思想では、ここで原則的に不変な行動原理と捉えられ、また市民社会と同列に置かれているこのかかわり合いの領域は、商業とマニュファクチャーという物質的領域に、教養的関心ではなく、取引上の占有と所有の利害関心で結びついている市民的私人の諸関連網に繰り込まれている。このかかわり合いの領域は、いまやスコットランド道徳哲学、ファーガソン、ヒューム、スミス、およびギルバート・スチュアート、ジョン・ミラーにおいて、またフランス重農主義者(ケネー、ミラボー、テュルゴー)においても登場する市民社会の概念形式のうちに反映されている。イギリス中流階級が一七世紀の政治革命以降手に入れた経済的産業的興隆、技能としきたりの《洗練》、法律と制度の《改良》は、ここでは与えられたものとして一般に前提されている。」(90)、「市民社会の静的な自然法理論は、進化的自然史的形式を獲得することになるが、スコットランド道徳哲学はこの形式において近代市民社会のもつ経済的政治的政治要素の漸次的自由化を歴史哲学的に正当化したのである。その歴史《市民社会の歴史》(ファーガソン)の対象は人間社会の文明化における自然的進歩である。この歴史は、従来の自然法カテゴリーではもはや叙述しえない構造変革、一七世紀以来古いヨーロッパ社会の(経済的、軍事的、法的、技術的)外的諸条件を捉えた構造変革を、すなわち政治的法的また経済的意味における自由主義的市民的社会へのこの社会の進化を分析している。」(91)ここには経済学とその周縁を含んだ諸学問の思考の前提が示されており、それぞれの視点が直接的には市民社会には向けられてはいないものの、市民社会の歴史に対してのアプローチの方法を見出すことができる。
リーデルは、デェヴィド・ヒュームが示した「享楽は、自然の開かれた自由な手によって我々に与えられているが、技術、労働、産業によって、我々はおびただしい量の享楽を得ることができるからである。それゆえ、全ての市民社会においては所有という観念が必要となる」(92)と言う箇所を引用し、「社会的生活にとっての所有の必要性はまもなく論争の的になるが、市民社会の出現は所有という事実を前提とするという命題は、その後もずっと反論しえないことであった」と説明している。また、リーデルは、ルソー『人間不平等起源論』における「土地の一画を囲い込み、これは私のものだ、と告げ、それを信じるに十分なほど単純な人たちを見いだした最初の者が、市民社会の真の創設者であった。」という引用も加えている(93)。伝統的政治的哲学の基礎をくつがえすこれらの新しい思想は、18世紀の後半にドイツ通俗哲学の手で取り上げられたとしている。
ドイツ通俗哲学は、自然と人間の歴史とは、もはや市民社会の秩序によってその間に境界線が引かれるとは考えられないとしている。つまり、「自然自らが歴史を持つことがこの間に認識されるようになったからである。重農主義理論と連携して、進化論的傾向のある道徳哲学は、〔市民社会の〕概念を、自然法的契約説の先例に構成上内在しているところの特有な非歴史的静力学から解放する。このことは、概念史的にまた語彙の歴史からすると、イギリス人の場合〈市民社会 civil society〉が〈文明化社会 civilized society〉に、フランス人の場合、〈市民社会 société civilisée〉に書き換えられたことに表われている。この書き変えは、一八世紀の道徳哲学的、経済学的諸説がもはや、市民社会の市民状態(status civilis der societas civilis)を、その核心となる部分、つまり政治体制についての教説とともに対象としているのではなく、〈社会〉の〈文明化〉された状態を対象としていることを明確にしている」ということである(94)。
ドイツ啓蒙主義のヴィーラントは『ドイツ・メルクール』への寄稿論文のなかで《市民社会の状態》を「ポリツィーレンされた社会の状態」と同一視している。自然状態から市民状態への移行は、ヴィーラントによれば飛躍ではなく、むしろ《社交性》の漸次的な展開に依拠する、「同一状態のたんなる進展」として捉えられているのである。リーデルは、ヴィーラントの理解を次のように示す。「社交性は人間の教養にかかわる事柄である、教養はしかし欲求と資質の増大と洗練に結びついている。そしてこれらはまた、相互作用をとおして持続的につくりだされ、前進的に分化してゆくためには、高尚な、あるいは少なくとも向上せんとする社会の存在を前提とする。社会は人間の社交性の産物であり、逆に社交性は社会の産物である。この二つは万有引力の中心、すなわち人間を共有しているが、人間は社交性を、社会のなかでまた社会に触れて形成してゆくのである。」(95)続いて、モーゼス・メンデルスゾーンの「教養、文化、啓蒙は―社交的生活の変様であり、また社交的生活を改善しようとする人間の勤勉と努力の結果である」という言説を用いて、リーデルは「〈文化〉は市民としての人間の教養〔形成〕を、また〈啓蒙〉は人間としての人間の教養〔形成〕を意味する。市民としての人間の教養〔形成〕はしかしその市民社会への人間の形成ではなく、〈社交性〉、〈文化〉、〈洗練〉において明瞭に現われるある社会的生活形式への人間の形成である」と考察している(96)。
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| 自然法論からの提起2 |
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| 2008年10月7日(火) 23:00 [ 哲学史 ] |
すなわち、カントまでの市民社会の概念形式において、個別意思と一般意思の間の差異化が十分には具体化しなかったことによって、自然法論はこの定式の前提と根拠との説明が不明確であるとされる(84)。他方、「自然法的契約説が差異の表現であるというのは、契約がばらばらの個人に適合した組織形式であるからであり、差異の克服への手段であるというのは、契約によって社会が再び政治的にすなわち《市民社会》として構成されるかたである」という説明をリーデルは加えるが(85)、自然法と契約の問題に関しても、市民社会への確固とした概念を提起することはできなかったのである。
しかしながら、自然法論的な《市民社会 societas civilis》の概念は、17世紀末から18世紀にかけて、ドイツ語圏において〈市民共同体〉または〈市民社会〉という語で翻訳されるようになり、このうち〈市民社会〉という語が一般的に支配的となったとされている。すなわち、リーデルによると、「18世紀における〔市民社会概念の〕流布は、ラテン語からの逐語訳に由来するのであって、イギリス(シヴィル・ソサイエティ civil society)やフランス(ソシエテ・シヴィル société civile)という啓蒙主義の影響のもとに、ドイツ語圏に浸透したわけではない。17世紀では、これに先立つラテン語的な表現形式は、〈ツィヴィル・ソツィエテート Civil societät〉や〈ツィヴィル・ゲマインデ Civil Gemeinde〉であり、これらのほかには、〈ビュルガーリヒェ・ソツィエテート Bürgerliche Societät〉が見られるが、そこにはドイツ語翻訳におけるある不確定性が認められる。そのことは〈市民社会〉という語の導入にもあてはまる。この語は正統哲学派の概念の翻訳語として、当時の語法には親しまれていなかったように思われる。いずれにせよプーフェンドルフの『自然法および万民法について De iure naturae et gentium』のドイツ語訳者の註記はこのことを示唆している」(86)という影響関係を捉えることができるのである
更に、「プーフェンドルフの訳者の註記は、〔市民社会〕概念の古い意味になおかなり正確に対応している。市民社会は、古典的政治学においても近世自然法論においても、人的団体、すなわちラントないしある都市の自由で責任ある人士(家長すなわち市民)の政治共同体である。ここではなお組織(合理的な支配=行政機構とこれに付随する官僚制をともなう)としての《国家》と臣民団体としての《社会》との区別は行なわれていない。その区別が前掲の箇所において現われているかぎりにおいては、その区別は〔市民社会〕概念によっていわば受け入れられている。すなわち官憲(人的に把握された支配組織)と臣民とは、その概念において《一緒に結合されている》。市民社会と政治的機構形式とは、なお相互に同化されている。すなわちそれらの《結合された》成員が《一緒になって》王国あるいは共和国を形成する。そのさいここで〈市民社会〉と訳される〈キウィタス civitas〉は、《国家》を、たんに《都市》すらをも意味せず、全ての《政治的》団体、すなわちラントの様々な支配組織―あるいは王国、あるいは男爵領、あるいは伯爵領、あるいは諸侯領( sive sit dynastica, sive baronia, sive comitatus, sive principatus)―に適用されうるものである」(87)としている。
ライプニッツによる市民社会の規範化は「自然的共同体」naturerliche gemeinschaftである。リーデルに指摘によると、その成員は時にはひとつの都市で共同生活を営んでいることもあり、時にはラントに拡散していることもある。そしてその目的は現世の至福である。市民社会概念の理解は、都市とラントとの区別によるのでもなく、その支配領域の広狭によるのでもない。ライプニッツは市民社会についてこういう、もしそれが小さければ都市と呼ばれるが、ラントは様々な都市の共同体であり、王国ないしは巨大な支配領域は様々なラントの共同体である。19世紀の法哲学や国家哲学が《封建社会》の典型的な現象形式として強調することになる、貴族によって統治されるラントの支配層とそれを支える人的な従属者の層は、この市民社会概念のなかに含まれている。すなわち、市民社会 societas civilisが、17世紀から18世紀にかけての政治理論において繰り返し好意的に受け入れられている封建的身分社会の本来的呼称であることが説明され、都市共同体は支配的に把握されるこうした社会の一構成部分を構成するに過ぎないというものである。(88)
加えて、17世紀から18世紀にかけての政治理論において市民社会と政治社会(societas civilis sive politica)が長らく区別されなかった理由を挙げると次のようなことが説明できる。それは、〈政治社会 politische Societät〉の概念が、市民社会 Bürgerliche SocietätないしGesellschaftを指示することによって説明されるという傾向があったのである。つまり、リーデルはこの問題に関して「〈市民的 Bürgerlich〉という形容詞は、何よりも常にこの社会の政治的分肢、すなわち市民的に特権的な、支配に関与する人(格)と身分だけに関連する。〈市民的 civilis〉と〈政治的 politicus〉の同義性は、たんに言語的に根拠づけられるだけでなく、そこには古い市民社会の同質的な支配層が表現されている。この支配層は、直接的な従属関係(隷従制、隷農制、農奴制)あるいは間接的な従属関係(雇傭、賃金制)に依拠し、これらと明白に対照をなしている。その結節点は《国家》でも《社会》でもなく、両者から区別される自律的な法則に従う経済領域(《利益社会》)でもなく、一方で市民と《市民的》身分(「市民身分すなわち政治身分」 status civilis sive politicus)であり、他方家への支配とそれに由来する人的自立性ないし独立性への請求権である。この社会の言語的連関系に関しては、古い《共同組織 res publica》が本来的に適切な表現である。市民社会はこの表現によって常に包括されている。すなわち「国家はこの点において最も広く受け取られると政治社会すなわち市民社会である( Res publica latissime sumitur hoc in loco politica sive societate civili.)」というように述べ(89)、国家への関心において市民的という観点と政治的という観点が同一の思考として存在してていたことが分かる。
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| 近世の哲学と政治学における市民社会概念 |
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| 2008年10月7日(火) 22:58 [ 哲学史 ] |
近世の哲学と政治学
市民社会という術語におけるアリストテレス的な概念の特質は、近世の政治学や哲学の諸傾向においても見ることができる。フランシス・ベーコンは「新オルガノン」の名の下に、アリストテレスの論理学とともに政治学の再構築を試み、両学問を、伝統的なアリストテレス的傾向に対して、未知の取引(de conversatione)と業務(de negotis)の教説に基づいた補足を行っている。ただし結局のところ、その主題は「市民社会」であり、人々はこれらの教説において扱われている《善》を市民社会に負うのであると理解できる(64)。ベーコンは「善とは人々が市民社会 societas civilisから自らのために獲得しようとするものである」と述べている。リーデルはベーコンの市民社会概念の前提要件に含まれる政治学についての理解を以下のように示している。
狭義の政治学を補足しうるであろうとされる諸学問のなかに、べーコンはこれらの教説のほかにさらに「国境拡張論(de proferendis finibus imperii)」と一般的正義論すなわち法の源泉論(de iustitia universali sive de fontibus iuris」を挙げる。前者の学科の導入は、マキアヴェッリと彼の一派以来《国家理性》(ragione di stato)という題目と結びついた特殊近代的な政治学概念―政治的権力獲得の技術、絶対主義的国家の《力》の保持、上昇、拡張―と関係している。この政治学概念に、ベーコンは《力》ではなく《法〔律〕》を規準とする正義諭を対置する。(65)
ベーコンにあっては「市民社会societas civilisでは法律 lexか力visかいずれかが有効である」、といわれる。力と法律との支配ということによって市民社会を定義しようとする古典的な概念の理論とこの命題は真っ向から対立する。法律が市民社会の理論と統一をなすのは、市民社会自体が《自然的(スコラ的な見解では、神的)》な掟ないし法によって正当化され、この掟ないし法を維持するために支配者と民衆は彼らの行動において責任を負うとされるかぎりにおいてである。(66)
これらに見るベーコンの理解は、市民社会を定義付けるものとしての法と力を重視しているものであり、旧来の考えから脱却させるという意識が含まれている。ただし、市民社会の法学的解釈にあたり、法哲学の実質的な探究が繰り広げられていなかったこともあり、法学と市民社会に関しての議論が不明確であったということは一つの難点であるといえる。
ベーコンに含まれる政治学領域から視線という意味で、同様の立場をとったのがマキアヴェッリ、ボダン、ホッブズであった。リーデルは、マキアヴェッリ、ボダンの政治学を通した市民社会への関心を以下のように捉えている。すなわち、それは、「マキアヴェッリが〈市民社会〉という術語にかえて、あまり明確に定義されているといえない〈市民的生活〉(vivere civile, politico)という表現を用いたのに対して、ボダンは先の術語に固執する。ボダンは、市民社会(civitas, societas civilis)が最高権力(至上権 summa potestas、大権 maiestasあるいは主権 puissance souveraine)という徴標によって初めて政治的組織形式(res publica, république)を維持するという前提から出発する」(67)としている。そして、「このカテゴリーが近世政治哲学へ導入されることによって、市民社会と政治的支配権力の関係が根本的に変更される。支配する者と支配される者の《市民》としての同等性の理念に依拠するあの市民社会に代わって、《主権》から生じる《統治》の有効性がその概念理解の中心を占めるようになる。《統治》はいまやしだいに《国家》の領域に独立し始める。《主権》という術語によって、職業身分団体、法人、自治体が法学的にも政治学的にも排除され、《国家》はもはや市民社会ではなく、《統治》社会を形成し、この社会は先の狭義における《市民》社会から術語的に区別される」というようにリーデルは概説し、更に、家族は自然共同体であり、職業身分組合は市民共同体であり、《国家》は、主権によって統治された共同体であるという利点をもつということを加えている(68)。
ボダンにとっては、《市民》社会と《統治》社会の区別が《国家》と《社会》の区別において維持されていない。この点について、ボダンは伝統的政治哲学の用語を重視しているのである。リーデルは、「ボダンはその後も彼の政治学上の代表著作のラテン語版において相変わらず《共同組織》として理解される《国家》について、国家 res publicaは職業身分組合や団体がなくても自立しうるが、家族なしには自立できない市民社会 societas civilisである」と引用を用いながら解釈を行っている(69)。
対して、リーデルはホッブスの行った「市民共同体」についての解釈について論じている。つまり、「ホッブズは、《国家》に集中される《主権的》支配権力がなお、市民社会の領域において、直接的に政治的関係に立つという多かれ少なかれ伝統的な前提と挟を分かった。そのさいホッブズもまた、初めは新しい主権理論の射程について未だより正確な観念を持ち合わせていなかった。それゆえに、ホッブズが彼の政治学に関する最初の著作『法の原理 Elements of Law』(1640年)において、国家〔=市民共同体〕すなわち市民社会〔=政治的共同体〕societas civilisとする伝統的な解釈か、彼の先駆者から受け継いでしる。そこでは〈市民社会〉は、その当時の日常語と教養語に周知の術語として使われている。その古典的政治哲学からの出自は、なおいかなる問題をも形成することなく、ホッブズによって愛好された契約的構成と難なく同定されうる」と示している(70)。そして、「このように形成されたこの結合体 unionは、我々が今日政治体 Body Politicあるいは市民社会 civil societyと呼ぶものである。そしてギリシア人たちはこれをポリスすなわち都市国家と呼ぶが、ポリスとは共通の権力によって、彼らの共通の平和、防衛および利益のためにひとつの人格として統合された多数の人々であると定義されてよい」(71)という指摘のように、ホッブスは国家共同体の主体としての《人間の集団》という点に着目しているのである。加えて、リーデルは次のような考察を続ける。
契約的構成のモデルは『市民論 De cive』(1642年)では、ホッブズが合意の理念自体を擬制的に把握することによって徹底的に覆される。国家 civitasはひとつの共通の強制権力によって、ひとつの人格へと統合される《人間の集団》ではなく、その人格が最高権力(summum imperium, summa potestas)の保持者としてその統合そのものを代表する。「ところで、かく形成された統合体 unioは、国家 civitasすなわち市民社会〔=政治的共同体〕 societas civilisとも、市民的〔=政治的〕人格 persona civilisとさえも呼ばれる。」(72)
市民社会 societas civilisは、それがそれ自身において何らの統一性をもたないがゆえに、市民的〔政治的〕persona civilisなのである。個別意志に関する自然法自体のために、契約的構成という前提によれば、全員の意思は、市民社会によって体現された意思の統一性から区別される。それゆえ、ここでこの統一性を強制する最高の権力が必要とならざるをえない。この権力は国家 civitasの統一性を表わす擬制的な人格に現実性を付与するが、この現実性はそれまでは、ボダンによってやはり前提されている、自由な家長たちによる支配的=コーポラティヴな統合という意味での市民社会 societas civilisを保証していたものである。ホッブズが『リヴァイアサン』において、結局のところ市民社会 societas civilisの概念を国家 civitasの定義からのみ導いているのは、こうした出発点の帰結でしかない。(73)
他方、ボダンによってはなお本質的に支配者主権として把えられた主権は、いまや《国家》主権へ、また《市民的〔=政治的〕人格》は《国家的人格》へと展開しているということである。すなわち、「国家〔=市民共同体〕 civitasとは何らかの市民でもなければ、全市民の集まりでもない」というホッブズの言説がそこに含まれる。最高権力なくしては国家は空虚な言葉にすぎないのは勿論であるが、最高権力の保持者に対して、市民は原理的に臣民として、これに対立するという構図がそこに見られるのである(74)。つまり、「ホッブズにとって、市民とか自分自身の主人である人(自権者 sui iuris)とかの観念は、《市民》社会においてひとつの頂点に達する諸《社会》の自然的発展段階と同様に、もはや何らの意味をも持ち合わせない」(75)ということである。更に説明を加えると、ホッブズによれば、名誉 honorと功用 utilitasを得るために、人間は集まり互恵的な社会を享受する(societate mutuagaudent)ということがいえる。すなわち、人間はまず功用を求め、第二にその結果としての名誉を求めるものである。この箇所に引用される商事会社の例は全ての団体に妥当する。すなわち、各人が尊重するものは仲間ではなく、自己の業務に力点が置かれるということである。換言するならば、それは「自然によって自己保存のための本源的加第一次的な権利が与えられる個人は、もはや個人を意のままにし、個人の行為の手段や行為そのものを、所定の目的に従って処理した全体の一部分ではなく、全体から解放されている。そのかぎりで、ホッブズの自然法は市民的解放の原理、個人の優越性を定式化している。個人は自身の自然的な目的を追求することを通じて初めて《社会》を形成するものとされる」(76)ということである。
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| 自然法論からの提起1 |
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| 2008年10月7日(火) 22:58 [ 哲学史 ] |
自然法論からの提起
自然法論の中心には、国家〔=市民共同体〕 civitasと市民社会〔=政治的共同体〕societas civilisとのあの伝統的=政治学的な同一性の定式があるからである。それを主権論が解体し始める。この解体過程に一定の限界がおかれるのは、ホッブズにおいて明らかである。ホッブズは17世紀における学派哲学の伝統に対する最も尖鋭で根本的な批判家のひとりに数えられる。すなわち国家 civitasを何らかの社会や共同関係のみならず、大きく継続的な諸社会から、また自然的状態 status naturalisにおいても可能な一切の社会的状態からも明白にまた完全に区別することが、ホッブズの場合も欠如しているからである(77)。
リーデルはこれらの基礎傾向を踏まえて、「古典的政治学とは対照的に個々人という存在から出発する自然法論は、アリストテレスの伝統をひく市民社会 societas civilisを、固有の問題にする。一七世紀の自然法論の諸体系では個別者、個人が社会的全体に先立つ。ここでは市民社会は本源的な(《自然的》な)存在ではなく、派生的存在である。先なるものではなく、後のものであり、個々の個人において始まる過程の結果である。近世自然法論の核心である、人間の自然状態の教説は、古典的概念理論の自然的地平との断絶を示す」(78)としている。加えて、「ホッブスは、「市民社会 societas civilis 外部での人間の身分について」という題のもとに、古典的政治学上の類概念を、それに固有の無歴史性から引き出す決定的な基本命題、つまり事物と人間の自然は市民社会 societas civilisへの統合を可能にする原理ではないという基本命題を定式化している」と指摘し、「古典的な政治学の伝統のもとでは統一をなしている人間の自然と歴史とは、いまや相互に分解する。市民的〔=政治的〕 status civilisは、本能か理性的衡量(正しき理性 recta ratio)かのいずれによってもたらされるにせよ、自然の《状態》がこれを放棄することを必要とする条件を生じさせるかぎりにおいて、自然の諸条件のもとにあるにすぎない」(79)というホッブス解釈を提示している。続いてロックに関してリーデルは「ロックにおいては、―自然の規定は人間によっ我が物とされることにあるのだから、市民社会 civil societyの根拠は、労働に侵されない事物の自然ではなく、所有権である」と分析している(80)。リーデルは以上のようにホッブスを土台とした「自然法」についての議論の経緯を示した後、自然法論が提示する市民社会概念の多様な類型について以下のように紹介している。
正統哲学の自然法論においては、個人の自然的目的(衝動、欲求などりを全体の人倫的目的と一致させる自然法(lex naturalis)の目的論によって、国家〔=市民共同体〕 civitasと市民社会 societas civilisとの同一性が正当化されているが、個人の存在から始めることはこの同一性を解体させることになる、しかしながら伝統とのこの断絶は必ずしも市民社会 societas civilis概念の枠組みからの離反を意味しない。自然法的諸原理において自然法論を差異化することは、市民社会と政治的体制との関係を規定する結論部においては維持されていない。というのも、自然法論は一七世紀の正統哲学とともに古典的政治学の〔国家と市民社会の〕同一性の定式に固執しているからである。〈市民社会〉の意味は伝統政治学上のものであり〈国家〉との同一性にあるとされる。〈キウィタス〉 civitas、〈ソキエタス〉 societasないし〈ソキエタス・キウィリス〉societas civilis、〈ポプルス〉populus、〈レス・プブリカ〉 res pubulicaといった言葉は、その表現上相互に言い換えが可能である。(81)
後期スコラ哲学者フランシスコ・スアレスにあっては次のようにいわれる。「人間の共同体 communitasすなわち社会 societasはふたつに区別されるべきである。ひとつは家内的すなわち家族共同体と呼ばれるものであり、もう一つは市民的 civilisすなわち市民 populusの共同体もしくは国家 civitasの連合体と呼ばれるものである。」このような表現は一六世紀から一七世紀にかけて繰り返し見られ、しかも正統哲学の内においても外においても見られる。このような例として、メランヒトン(「市民社会すなわち帝国 societascivilis seu imperium)、コウァルウィアス(「国家すなわち市民社会 civitas id est civilis societas」)、H・コーンリング(「国家すなわち市民社会 civitas sive civilis societas」)、フランシス・べーコン(「国家すなわち社会 civitas sive societas」)、フーゴー・グロティウス(「国家または市民すなわち連合 civitas ac populus sive coetus」)、スピノザ(「国家すなわち社会 civitas sive societas」)を挙げることができる。(82)
メランヒトンはそのアリストテレス『政治学』の註釈において次のようにいう。「国家 civitasとは法によって組織された市民社会 societas civilisであり、相互の利益とりわけその保全を目的とする。市民とはその社会にあって統治権あるいは裁判権に服しうる者のことである。」スピノザも同様に次のように定義する。「ところで社会 societasは法律と自己保存の能力とによって確保されたとき、国家 civitasと呼ばれ、そしてその法によって保護される者は市民と呼ばれる。」最後にこのような関連で、さらにロックの『市民政府論 Second Treatise of Civil Government』(1689年)とカントの『法論の形而上学的基礎づけ Metaphysische Anfangsgründe der Rechtslehre』(1797年)が挙げられよう。ロックはその著の第七章を《政治社会すなわち市民社会について》 Of Political or Civil Societyと題しており、カントはその法論の第四五節において《国家》と《市民社会》との関係を《国家すなわち市民社会》civitas sive societas civilisという同一性の定式によって説明している。(83)
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| 市民社会と宗教改革 |
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| 2008年10月7日(火) 22:55 [ 哲学史 ] |
宗教改革
歴史的経過を踏まえる上で、リーデルは続いて宗教改革に着目する。その前提として、「宗教改革者たちはスコラ的アリストテレス主義に対する批判を行なっているにもかかわらず、社会構造とその術語の不変性という特質は、彼らによっても問われていない。むしろその特質はアリストテレス主義と容易に一致される若干の基本的観念によっていっそう助長された。このことはとくにルターとメランヒトンの三身分に関する教説と、社会、法、支配との関連におけるその規準化的機能にあてはまる」と述べ(51)、「〈法〉は、ルターの場合、極めて一般的に《世俗的統治》、〈政府〉、ラントと都市における支配を意味し、へ《官憲》という政治的身分 status politicusにある人間の、臣民に対する統治として理解される。一般に人間の起源は、《家》、家政、つまり《家〔支配〕権》によって整序された親、子、使用人間の支配関係にある。そしてこのふたつの《世俗的》統治に対して、《精神的》統治、つまり教会ないしエクレシアが上位を占める」というように、ルターの政治に関しての解釈を提示している(52)。続いて、キリスト教において重要視される教会についてのルターの解釈を取り上げ、ルターの捉える教会とは、家から〈人々〉を、都市すなわち〈政府〉から庇護を得るものであると示している。そして、リーデルは、「したがって詩篇127で地上のただふたつの肉体的〔=世俗的〕統治は町と家であるとして次のように言われている。《主が家を建てられるのでなければ》ないし《主が町を守られるのでなければ》。第一は世帯であり、そこから人々がやって来る。第二は町の統治であり、これはラントであり、民衆、諸侯、主人である。それは一切のもの、子供、財産、貨幣、動物などを与えてくれる。次いで、第三のものは神ご自身の家と町である。それは教会であり、家からは人々を得、町からは庇護を得なければならない。」という詩篇からの引用を行っている(53)。
ルターは、全ての世俗的秩序、つまり、家的秩序、政治的秩序、教会的秩序の《初め》を創世記の記事から捉え、それらは神によって直接に定められたと定義する。すなわち、ルターの三身分論には、「アリストテレス的なコイノニア〔共同体〕論のみならずスコラ的な人間完成perfectio思想も欠如しており、その結果、ルターによってこの講義で使われている市民社会概念は、たしかに市民としての人間のありかたを意図しているが、人間存在の《自然的な》完全性に属するものとしてではなく、神の意志によって定められ造られたものである」(54)というような特質を見出すことができるのである。加えて、ルターは「全ての支配において神の秩序と意志とが配慮されるべきことは先に述べた。我々はこの同じ教説によって、単一の理由から神がこの世にそうした仮面や役割すなわち市民社会の地位や秩序のあることを欲せられたということをふさわしいところで説明され、勧められる。」と語る(55)。
リーデルは、これらのルターの解釈に関して「初期の著作において最も明確に定式化された、霊の国と世俗の国という宗教改革的な二王国論がその背景にある。それゆえ学問的用語法から受容された市民社会の概念には、政治的な隠喩という性格があり、この隠喩によって、ルターは、道徳哲学的ないしは自然法的にではなく、肉体的=身体的すなわち歴史神学的に把握された人間の《世俗的》存在を書き直すのである。」と指摘している。(56)
メランヒトンの市民社会概念は、道徳哲学的基礎と伝統的=政治学的な位置価を回復することを基礎にしているとされる。メランヒトンのアリストテレス『政治学』註解において、メランヒトンは政治学と倫理学との伝統的な峻別について述べている。すなわち、それは「倫理学が《私的な》慣習を論じているのに対して(sicut Ethica de natura ducit)、政治学の対象は、市民社会、社会成員の諸義務、この社会の自然的な発生原因である( ita politica disputant de societate civili, et officiis ad societatem pertinentibus, et causas societatis ex natura ducit)。」という区別である(57)。加えて、『ニコマコス倫理学』註解において、メランヒトンの《道徳哲学》Philosophia moralisが論じられることになる。
そこにおける解釈には、「アリストテレスやキケロへの様々な回帰が組み込まれ、社会概念の自然法的な基礎づけへの着手が認められる(「有力な原因〔作動因〕は社会を営もうとする人間本性(自然)の傾向ないしは判断であるが、こうした傾向は神学的な傾向(「神は社会があることを欲したまう」 vult Deus esse consociationem)とは真っ向から対立する」ものであると、リーデルは指摘する(58)。つまり、「自然法(lex naturae)と人間理性(ratio)にもとづく、アリストテレス=スコラ哲学的な論証に対して、メランヒトンは『神学上の立場 Locis theologicis』において神が市民社会の真の原因者であることを説明する」という傾向が見られるのである(59)。すなわち、メランヒトンは「たとえこの見解が真実であるとしても、市民社会 societas civilisないし帝国imperium〔すなわち国家〕の原因について未だ十分に説明していない。というのは、たんに人間の熟慮や実行力だけではけっしてすぐれた法律や市民社会が維持されえないからである。それゆえ我々は、神の命令によってこの秩序が設立され認可されたものであり、また実際神によって支えられているのを知るのである。」と論じているのである(60)。
リーデルは加えて、以下のメランヒトンの言及を提示している。「モーゼの律法の全てがこの〔神の〕命令についての明確な証しであり、たとえそれがひとつの民族に提示されたものであるとしても、この政治的生活についての神の意志の証しである。他方道徳律 Lex moralisは、適切に理解されると、それ自体まさしく市民社会 societas civilisの秩序ordoである。」(61)ここで重要なのが、メランヒトンや古いプロテスタント的倫理学においては、モーゼの十戒の第二表が政治的生活内部での掟や生活形式と関係づけられるのに対し、第一表は教会という精神的領域にかかわるものとされるということであろう。リーデルはこれに関連し、「カルヴァン、ツヴィングリ、ブツェルにも同様に、霊的《秩序》と世俗的《秩序》(教会的秩序 ordo ecclesiasticus ―市民的すなわち政治的秩序 ordo civilis sive politicus)という峻別が認められるが、メランヒトンは一六世紀の人文主義的教養をそなえていたので、他の宗教改革者に比して古代の哲学的道徳理論つまり倫理学と政治学により大きな比重を置こうとするかぎりにおいて、彼らの峻別を越えている。」と説明している(62)。そして、神学的基礎はメランヒトンにとって政治的秩序の道徳哲学的正当化をそのうちに含むものであり、この正当化のほうは倫理的ほ政治的序列と世俗的地位を基礎づけるものと捉えられたのである。これによって、市民社会概念は初めてこの地位を獲得することになったといえるのである(63)。
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| 市民社会のラテン語への翻訳 |
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| 2008年10月7日(火) 22:54 [ 哲学史 ] |
ラテン語への翻訳
〈市民社会〉概念のヨーロッパ的な教養言語は、キケロ以来ポリティケ・コイノニア[市民社会〕のラテン語形の表現が存在するものの、このラテン語形が広くゲルマン・ロマンス語系民族の言語世界と概念世界に普及するのは、13世紀から14世紀にかけての、アリストテレスの『政治学』と『ニコマコス倫理学』の翻訳と、これに続くスコラ学派によるこれらの著作の註釈によるものが大きいとされている(33)。リーデルはその市民社会の語形を事細かに紹介している。この概念と用語の双方を踏まえた諸解釈とその系譜を明確に記した論考は存在しない。まさにリーデルは綿密なまでの発掘作業を行ったのであった。以下に、その発掘によって得られた多くの知識と情報を示すことにする。「キケロにあっては〔ポリティケ・コイノニアという〕その語は〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉ともくコムニタス・キウィリス communitas civilis〉とも訳された。ギリシア語からラテン語への翻訳という事実に目を向けると、コイノニアが〈ソキエタス societas〉とも〈コムニタス communitas〉、〈コムニカティオ communicatio〉、〈コイトゥス communio〉とも訳しうることが注目される。中世において、アリストテレスの『政治学』を初めて翻訳したヴィルヘルム・フォン・メルベケは、一貫して〈コムニタス・キウィリス communitas civilis〉ないし〈コムニカティオ・キウィリス communicatio civilis〉〔という訳語〕を用いている(1261年)。」(34)
アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスの註釈は、ヴィルヘルム・フォン・メルベケのラテン語版をもとにしているので、彼らの註釈においてこれらの概念が好んで用いられていることは当然のことであろう。トマスはこれらの概念と並んで、〈ソキエタス・ポリティカ societas politica〉、〈ソキエタス・プブリカ societas publica〉のほかに、時にはくソキエタス・キウィリス societas civilis〉という表現を用いている。これらの表現は最初キケロによってギリシア語の訳語として採用されたものであるが、15世紀から16世紀の人文主義者たちの翻訳により普及したと思われる。ここで先導の役を果たしたのは、レオナルド・ブルニによるアリストテレス『政治学』のよく読まれたラテン語版(1438年)であり、ブルニはメルベケの表現を「不合理で」かつ粗雑であると考えている。(35)
17世紀になると、〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉、〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉、〈ソシエテ・シヴィル société civile〉、〈ソチエタ・チヴィレ società civile〉という語がアリストテレス主義者のみならず反アリストテレス主義者の間でも同様に広まり、その結果新しい訳語がそれとともに併存している訳語を〈古い〉ものとして次第に排除していく。(36)
このような訳語の問題との関連で一方で〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉、他方で〈ソキエタス societas〉と〈コムニタス communitas〉という同義語が二重に用いられていることが我々にとって重要である。これに続いてポリスとポリティケ・コイノニアとを同一視するアリストテレスの同一性の定式が第三の概念契機として書き継がれる。こうして14世紀初頭ヤコプ・フォン・ヴィテルボは〈コムニタテス communitates〔communitas〕〉すなわち〈ソキエタテス societates〔societas〕〉の秩序は、人間の本性の傾性そのものによって展開されるが、このことはアリストテレスが『政治学』第一巻において述べる。(37)
〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉との同義関係はこの〔コムニタスとソキエタスとの〕同一視に対応しており、この同義関係があの同一性の定式を示していることはすでにアルベルトゥス・マグヌスにある。アリストテレス『政治学』註解において、「人間にとって自然であるところのもののうち、キウィタス civitasとはコムニカティオ・キウィリス communicatio civilisすなわちコムニカティオ・ポリティカ communicatio politicaである」といわれている。(38)
〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉の同義性は、ギリシア語術語のラテン語への受容にさかのぼる。キケロは初めて「適切にも市民に関するcivilis―ギリシア語では政治に関するpolitikosと呼ばれる哲学上の論点」について語った。〈キウィリス civilis〉はローマ人にとっても、〈市民 civis〉つまりローマ国家 civitas Romanaの成員としての市民にかかわるものであり、市民に関する哲学 philosophia civilisとはしたがってギリシア古典哲学の構成部分としての政治学である。訳語上のこのような言語的事実は、〈市民社会〉の古い概念理解に組み込まれているはずである。(39)
近世におけるこの概念の歴史を一瞥するならば、18世紀末葉に明瞭になる《国家》(キウィタス、レス・プブリカ)と《社会》(ソキエタス、ソキエタス・キウィリス、ポプルス)の近代的な峻別だけでなく、少しのちに要請された《利益社会 ゲゼルシャフト societas》と《共同社会 ゲマインシャフト communitas》ないし《協同社会 ゲノッセンシャフト》との区別もその当時の概念理解には知られていなかったといえる。(40)
これら引用した部分に含む多くの要点を鑑みると、今日的な用語の源泉は何かという問いへの解答を与えてくれる。用語の源流はアリストテレス『政治学』に見出されるが、〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉、〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉、〈ソシエテ・シヴィル société civile〉、〈ソチエタ・チヴィレ società civile〉に示される「市民社会」の用語が各言語に共通して示された傾向は重視すべきことであろう。そしてこの傾向による統一化によって、政治学分野における市民社会の概念化が進展したと考えられる。
リーデルは上述の概念史の様相に加えて、13世紀から14世紀にかけてのスコラ哲学において行なわれたアリストテレスの術語の受容という状況について解説を行っている。すなわち、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスとは、アリストテレスによって形成された概念を、一方で聖書キリスト教教義と、他方で中世の都市生活の法的−政治的要素とを連結させたということである。(41) つまり、「しかるに人間の法がそれへと秩序づけられている共同体と神の法が秩序づけられている共同体とでは、それらのあり方が異なる。けだし人間の法は人々の和互の結びつきである政治的共同体communitas civilisへと秩序づけられている。―しかるに、神の法がそれへと秩序づけられているのは、現世の生においてであろうと、来世の生においてであろうと、神との関係における人々の共同体である」。(42)という引用を用いて、リーデルは《世俗的に》理解された政治的共同体(コムニタス・キウィリス communitas civilis)と、全ての人的規約を超越する超世俗的な神における共同体(コムニタス・ディウィナ communitas divina)との二極であり、トマスにあってはこれがさらに現世と来世における形態が区別されるという説明を行っている。加えて、「古典的な市民共同体は、キリスト教を通じてその歴史的な状況との連関を失ったにもかかわらず、トマスにおいては神の信仰に生きる人々の国(神の国 civitas Dei、神のもとの国家 res publica sub Deo)への体系的な結節点として再現する。たしかに(可視的教会 ecelesia visibilisと不可視的教会 e. invisibilisとして)その超越性はアリストテレスの市民共同体より高いところにあるが、しかしその歴史的内在性を破壊することはなかった」のであった。(43)
上述に加え、アリストテレスの市民共同体は、下に向かっては《家》共同体から区別され、上に向かってはアウグスティヌスの『神の国』に対応して《神の》共同体から区別されるとしている。すなわち、トマス・アクィナスはアリストテレス政治学の格言的註解において、アリストテレスのコイノニアの形態を、《様々な共同体》diversas communicationesとして扱っているが、そこでは《自然的》共同体や《家》共同体が政治的共同体 communicatio politicaに先行し、それ自体は教会に体現される《神の》共同体によって超越されるということである。(44)そして、リーデルは「実際、ある共同体は自然的なものであり、ある人々が自然的な由来で共同し、また、この共同体においては父と子と他の血縁者の友誼が形成される。ところである共同体は経済的なものであり、これによると人々が家内的な義務について相互に共同する。またある共同体は政治的なものであり、これによると人々は自分たちが同国民であるために共同する。第四の共同体は神的なものであり、これによると全ての人々が教会という唯一の団体において、あるいは顕現的にあるいは潜在的に共同する。」(45)という指摘をここに付加している。続いて、リーデルは、「アリストテレス的概念の規準を越え、トマスがこの連閏て先取りしているもらひとつの区別」を「すなわち永続的なことと一時的なこと(in perpetuum et temporale)という契機による人間の社会的生活の区別である。トマスは《永続的社会 societas perpetua》として、市民社会を人間の生涯の全時間に(ad totum tempus vitae hominis)関係づける。これは彼にとっては《都市》での《居住》(mansio civitatis)ということ」というように提示している。(46)
つまり、都市における倫理的=政治的な生活形態は、目的論的=自然的に、人間存在の完成に属するとみなされるのではなく、市民的存在の有限性や神的存在に対するその無縁性を包含しているという理解である。(47)アリストテレスにおける『政治学』のポリス理念はアウグスティヌスにおける神の国と地上の国の対置によって相対化され、その意味での《市民社会》は、時間とは無関係な古代都市のあり方をキリスト教的中世的都市住民という時間的存在に限定したところで現出せられていると捉えられる。その理解に基づいて、リーデルは「《公的社会すなわち永続的社会 societas publica sive perpetua》は、政治社会 societas politicaの概念で捉えられている。」と考察している。(48)
加えて、近世自然法論に関連して、市民社会のスコラ学派的概念は、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスによって再構成された形で、18世紀にいたるまで通用し続けたとされている。(49)このスコラ学派的概念が長期的に通用したことに関して、リーデルは「アリストテレス=スコラ哲学の用法は、歴史哲学ないし社会理論によってその術語を相対化することをしないのである。この点で、政治哲学はアリストテレスにおいて基礎づけられた形で、なお数百年にわたって、自然と人間の歴史が原理的に不変と考えられる市民社会の地平において統一をなす社会的=歴史的世界の理論であり続ける」と考察している。(50)
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| 市民社会のラテン語的概念 |
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| 2008年10月7日(火) 22:52 [ 哲学史 ] |
ラテン語的概念
続いて、リーデルが着目するのは「ラテン語的概念伝統」である。市民社会の理論におけるアリストテレスの欠陥は、ヨーロッパの政治哲学の用語の変遷と系譜に難点を付加したとされている。アリストテレスが論じた、貴族が支配する、限定された自由権にもとづく生活形式という概念は、(帝政期以前の)古いローマのキウィタスのみならず中世ヨーロッパの貴族世界や都市世界、さらには近世初期の身分制社会を再認識するための試案となった。(24) その前提としてリーデルは「ヘレニズム時代の新しい大帝国が成立し、ギリシアの都市国家が衰退するとともにアリストテレス的概念が存続するための根拠は、初めて失われたように思われる。伝承の史料を概観するかぎりでは、アリストテレス的概念は実際のところペリパトス学派においてのみ受け継がれ、さらに教義編集として伝達されたにすぎない」ということを説明している。(25)そして「一方でストアの世界主義的なエートス、他方でエピキュロス派や懐疑派の哲学の隠遁的なエートス、そして最後にキリスト教の勃興、これらが古代末期においてアリストテレスによって規準化された適用可能性を越える概念の発展をもたらす」と評価し(26)、その具体的な概念史に触手を伸ばそうとする。
特に、アリストテレスとの違いという点で、リーデルが重視したのは、「正しくない」支配関係の排除に向けた働きかけであった。すなわち、それは、「古典期ギリシア哲学が宇宙の秩序をポリスに投影するのに対して、ヘレニズム思想は宇宙自体を、神と人間に共通で《自然》からなる法ないし法則(共通法則あるいは自然法則)によって規制される《ひとつの》ポリスへと高める。ストアのこの《自然法》は、《本性上》ポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕としてポリスに統合される自由で同等な人士たちの《法》から区別される。自然概念はアリストテレスにおいては主人の奴隷に対する支配を市民社会の支配秩序とともに正当化するものであったのに対して、ストアにおいてはいまや逆に主人と奴隷、市民と外人、ギリシア人と蛮人との区別を排棄するのに役立つのである」という解釈である。(27)
更に説明を加え、「ストア派は人間を政治的動物としてでなく、《社会的》動物と呼び、エピキュロス派は共同組織(コイノン)にかかわる法を、諸個人間の詳しく特定化されていない相互的《社会》の前提として解釈した。このことはローマ法の用語のなかで受け継がれ、ローマ法はこの用語法をさまざな形で受容した。古典期ギリシアのポリス理論が市民社会の雛型によって組織されない種族、民族、大帝国をその概念から排除するのにたいし、ローマ人にあっては《外人》のための法は万民法(iusgentium)上の制度を形成する。この点で、ストア的な世界旨市民の理念は、ローマ帝国に包括される諸国民と諸民族の連合〔の理念〕へと展開され、潜在的には、奴隷でなく自由人であるかぎり《全ての人間》にまで拡張される」(28)というストア派に見られる新たな考え方を提示し、その意義を認めているのである。そして、リーデルは「ローマ市民であると外人であるとを問わず(sive sives Romanos, sive peregrinos)。」という文言を引用している。(29)
その後、これらヘレニズム思想の素地の上に、キリスト教が来訪したことによる変化が見られた。リーデルはこのことをアリストテレスとの比較という意味で重視し、次のように指摘している。
新約聖書の福音が政治的なものの領域にもたらした決定的な変化は、おそらく異教的な都市的世界全体にとって特徴的な市民と文化の共同態の統一性を解体した点に求められるべきであろう。アリストテレスにおいてはなおポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕の概念に属する、供犠と祭儀の共同、《都市守護神》の崇拝は、たしかにすでに以前に失われているが、キリスト教の普及とキリスト教の《教会》への組織化によって初めてポリスないしキウィタスと教会とが相互に対立するようになる。アウグスティヌスが古代末に神の国 civitas Deiおよびこれと地上の国 civitas terrenaとの対立という歴史神学として総括した、人間の二重市民権の理念も、先述の内容と関連している。この理念は紀元一世紀の百年間を通じて古典的政治学とそれにもとづく言語連関系をほぼ完全に忘却させた。(30)
アウグスティヌスにおいては〈市民社会〉(そのラテン語化されたかたち〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉という術語は、わずかに一箇所だけに見いだされるにすぎない。そこではキリスト教以前の古代における市民と祭祀の共同態という先に挙げた連関を主題にしている。このことと呼応して、新約聖書で用いられる古代政治学的な術語の大多数はもはやこれらに本来的にそなわっていた意味ではなく、寓意的=神秘的意味をもつようになった。そこではおそらく、すでにヘレニズム期のストア学派哲学に始まったその空測化の過程が極めて顕著であり、この過程は初期キリスト教の教父文献において存続する。しかしながらこれに対する反対運動は、すでに四世紀から五世紀にかけて、ラクタンティウス、アムプロシウス、そしていうまでもなくアウグスティヌスに始まる。(31)
キリスト教の来訪からアウグスティヌスまでの時期は、まさにキリスト教の組織化の起点をなしているため、キリスト教の関心は「市民社会」へとは仕向けられなかったのである。上記に見られるように、神の国 civitas Deiという理念は、逆に祭祀的な共同態へと連結するものであり。まさしく、信仰における共同体の実践に向けたキリスト教的解釈が市民社会に関する議論より先んじていたといえるのである。リーデルは、「古代末期に再び〈公的〔存在〕〉になった教会の地位は、キリスト教的教義伝統がそれまで以上に強力に伝承の政治的観念世界とその言語的な基本形象とに結びつくという結果を生んだ。そのことが初期キリスト教における政治的な概念の脱世俗化と宗教的な新しい解釈を許容するかぎりにおいて、教会の指導者たちは、コイノニア〔共同体〕論の古代的基礎を更新したのであって、このことから我々は、新約聖書の福音も古典=政治学的伝統をひく《市民社会》の理解を究極において打破することができなかったと判断できる」(32)としている。
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| 市民社会概念の歴史的系譜2 |
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| 2008年10月7日(火) 22:51 [ 哲学史 ] |
つまり、アリストテレスは、ギリシアの日常語のだれもが知っている〈ポリス〉や〈コイノニア〉のような語を、ポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕という術語に要約し、これをポリスの歴史的実例に即して説明することによって、ギリシア都市共同体から切り離されローマ共和国にも、さらに時代は下って近世ヨーロッパの都市や国家世界にも転用されえたような普遍性をもった市民社会概念を準備しているということである。(16)更に、「ポリスの《本質》とは何かを範例的に―《善き》すなわち徳のある幸福な生活という目的のために相互に結合する市民の社会と―説明することによって、アリストテレスの市民社会〔概念〕は、普遍性の点で他にもはや凌駕されることも他の術語によって置き換えることもできない政治学上の概念形成の雛型として通用する」という評価をリーデルは行っている。(17)アリストテレスに市民社会の概念化に関して、次のような三用法が本質的であるとされ、より具体的な解釈を含める。
第一は《家》(オイコス)と《都市》(ポリス)、すなわち、《家》共同体〔社会〕と《市民》社会との区別である。ポリスは、アリストテレスの理解によれば多くの《家》々の連合体であり、《家》々と諸《氏族》、すなわちギリシア自由人の同族結合と家族結合とから組織される。しかしながらかかる組織には、本来的に政治的なものと家政的なものの領域との対立が固着しており、これがポリスとオイコスを相互に分化させる。(18)
この対立は、アリストテレスが奴隷、居留民、〈市民社会〉という術語を規準化するさいに用いる第二の区別、つまり自由人(《市民》)と非自由人(〈非市民〉、外人など)という身分によるポリス住民の分類から、説明される。市民社会の発生、つまり《前市民的》共同形式からポリスへの移行は、個人の保持と個人の生活上の欲求や必要の充足がすでに確保されていることを前提にしている。かかる個人的欲求の充足は、近代的観念とは異なり、アリストテレスにとっては市民社会ではなく《家》共同体の義務である。家共同体の学としての家政学と政治学―市民社会とその政治的な体制の学としての―とが相互にかかわるのは、市民が同時に家の主人であるかぎりにおいてである。この二重の機能のうちオイコスは、全ての市民に共通のもの、つまりポリスないしポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕という公的なもの(コイノン)から排除された《私的なもの》(イディオン)の領域として、現われる。市民は、《国家》と同視される市民社会の成員として、《家》という私的領域に属するのではなく、逆に、《私的なもの》を支配しつつ、家の主人として労働と経済的生産の領域から解放されているからこそ、市民でありうるのである。(19)
そこからさらにアリストテレスはその概念の専ら政治的な意味を規準化する第三の区別を生見出す。アリストテレスにとって国家経済の《学》なるものはなお存在しなかった。というのも全ての《家政的》な知識は、生活を維持していくうえで必要なものとされるだけで、全体として《偶然的》であり《無価値》だからである。生活に必要な手段を《支配する》ためには、《家政的》な支配だけで十分であり、それには何ら特殊な知識を要しないのである―《政治的》(市民的)な支配への関与はこれとは逆で、市民たるものはこの支配というものを常に《理解》していなければならないとされる。《家政的》な支配が非自由人(奴隷)、未熟自由人(子供)、権利制限的自由人(妻、女子)に拡張され、実力にのみ依拠するのに対して、市民的な支配は自由人による自由人に対する支配であり、この支配は被支配者の合意のみならず、アリストテレスによって市民社会の秩序とされる法をも前提にしている。(20)
このリーデルの示した、アリストテレスの概念化に関する三区分は、あくまで政治共同体の内実の説明を客観的に行ったという意味がある。改めて確認するなら、「アリストテレスの術語はその哲学的原理的意味とギリシア都市国家の時代と歴史に拘束された自己理解を越えた規準的意味を獲得する。ポリスとは、ポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕、つまり、実力や圧制にではなく、法の原理にもとづく自由で平等の人士の社会としての、〈政治社会〉のことである。このようにアリストテレスが彼の時代の政治学的な用語を規準化することによって、この術語自体、人間の社会形式と支配形式を規準化する機能を得るのである。つまり、この術語は政治社会を他の全ての社会から区別するのに役立つ。換言するとポリスという形をとって初めて歴史に登場した《社会》、つまり自由な人士としての人間を原理とし、平等の人士としての市民を支配の主体とする《社会》を規定するのに役立つのである」。(21)アリストテレスは『政治学』における二個の基本原理として、人間は本性上「政治的動物」であり、ポリティケ・コイノニア(政治的共同体)としてのポリスは人間社会の発展の目的であり「規範」であるという理解に繋がるのである。
しかしながら、リーデルはこの基本原理に対して批判を加えている。それはつまり、「この点ににアリストテレスの概念形成の限界がある」ということであり、「アリストテレスは人間の本性を常にすでに歴史的に解釈しているので、この人間の《本性》と、ポリスという市民社会における人間の社会=歴史的な存在との関係は、説明されないままにとどまっている。まったく不確定的な意味で《本性的》である二つの関係形式、つまり、社会形式と支配形式が(事実上)存在する。すなわち主人・奴隷関係と市民相互間の関係つまり市民社会自体が存在する。こうして結局のところポリスの起源をその二重の本性概念によって規定しようとするアリストテレスの試みもまた挫折している。」という批判である。(22)
要するに、ポリスの組織は人間社会の現実化であり、そうしたものとして社会と支配との正と不正の規準であり、ポリスの目的に対応する社会は《正しい》ものとして現象するという前提に立つ場合、自由かつ同等の人士の間の《法》にもとづく市民社会自体なお《正しくない》支配関係に基礎を置いていることは矛盾を孕んでいるということである。また同時に、アリストテレスにとってそもそも問題にはしておらず、アリストテレスは支配と従属との関係の規準について問わないのである。(23)
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| 市民社会概念の歴史的系譜1 |
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| 2008年10月7日(火) 22:50 [ 哲学史 ] |
第一節 市民社会概念の歴史的系譜
リーデルの説明は以下の述語解説から開始される。「ヨーロッパ政治哲学上の術語としての<市民社会 bürgerliche Gesellschaft> は、アリストテレス以来伝承され、およそ一八世紀中葉にいたるまで通用した、古い言語伝統においては、《市民団体》ないし《市民共同体》といったことを意味する。これらの語においては、市民が自由で平等に共存し(通常は市民自身によって担われる)、政治的支配形式(共和政や貴族政あるいは君主政も含む)に自ら服する社会ないしゲマインシャフトが理解されている。〈市民社会〉は、その歴史的由来によれば、〔政治的共同体を意味する〕ギリシア語のポリティケ・コイノニアの、ラテン語のソキエタス・キウィリス societas civilisの逐語訳であり、たしかに発音上の違いはあるがこれらの表現と同じ意味の術語である。」(1)そしてこの解釈に対して、「一九世紀初頭に始まる新しい用法では、〈市民社会〉は、中世の封建社会の諸々の政治的支配形式から近代市民階層が解放されることによって生まれた、市民たる私人からなる社会を意味し、彼ら市民たる私人は、自由と平等の原理によって人格としても所有者としても相互に独立し、―初期の市民的自由主義の理論的雛型によれば―人間による人間に対するいかなる支配にも服さないものとされる」(2)というように指摘を加えている。
つまり、ギリシア語=ラテン語の伝統をひく古い用法では、<市民>社会ということで、常に《政治》社会が理解され、その結果、この場合の語義は支配団体としての市民共同体(ポリス・キウィタス)とその公的=政治的組織つまり《共同組織〔=国家〕》(ゲマインヴェーゼン・コイノン、レス・プブリカ)をも含意するのであり、これを定式化すると、市民社会は政治的支配形式つまり《国家》と同意味ないし同義語であり、両術語とも同一の概念を表わしているということになるということである。対して、新しい用法では、〈市民社会〉と〈国家〉とはまさしく相対立するものとされ、そこでは〔市民社会という〕術語の用法は支配・組織形式の欠如ないし否定によって定義されるのである。(3)
リーデルは「〈市民社会〉はいまや市民たる私的所有権者からなる社会、つまり人間による人間に対する政治的支配にかえて、(人格および所有権の自由という原理により)物に対する経済的支配だけがなお承認されるような社会という、脱国家的脱政治的な領域だけを指している」(4)と述べ、政治的な意味での市民社会という観点を先ず提示しているのである。続いて、「脱国家的脱政治的な領域」ということについて、リーデルは以下のような論述を加える。
そこから政治哲学にとって、〈市民社会〉という術語のもつ同音異義の問題が生まれる。つまりその用法は多種多様であり、近代世界の社会的関連のなかでますます多義的となってきたのである。同音ないし同一名称が様々に適用され、その意味がもはや時代や状況にかかわらず不変のものとしては通用できない事態が一八世紀から一九世紀への移行期に随所で露呈し始める。(5)
そして、リーデルはカール・マルクス『ドイツ・イデオロギー』の序文(1845年)を引用する。「市民社会という語がでてきたのは一八世紀であって、所有関係がすでに古代的および中世的な共同紅織からぬけだしていたときだった。市民社会そのものはブルジョワジーとともに初めて発展する.しかしながら直接に生産と交通とから発展する祉会組織は、全ての時代に国家およびその他の観念論的な上部構造の土台を形づくっているが、やはりいつでもこの同じ名称で表わされてきた。」(6) すなわち、マルクスやエンゲルスにおいては、市民社会は自由な所有権者からなる人的結合体という自由主義的モデルによっては考えられてはいないということである。リーデルの指摘によると、マルクスはこの点で初期社会主義の自由主義批判を継承しつつ―物〔=財〕に対する人格の支配が目指されたことと結びついて、政治的、社会的な結果、例えば、物〔=財〕ではなく労働力だけをもつ人間に対する所有権者の支配を指し示しているということであり、この支配によって「市民社会の言語的連関体系はもう一度更新される」としている。(7)
つまり、市民社会は、あらゆる支配を免れ自由で平等と認められただ市場法則のみに服する人格と所有権者からなる結合体を意味するのでなく、有産階級に従属する無産の《プロレタリア》階級と区別された、《市民》の有産階級つまり、資本と労働の対立に基礎をおく一九世紀の《ブルジョア社会》という意味での市民社会を指す、ということである。(8)これらの点の問題性に対して、リーデルは「以上に概略だけを示した背景からしても、〈市民社会〉という術語と、とくに現代にいたるまでのドイツ語の概念伝統のなかでのその適用とに付随する未解決の問題が多々あることは理解されよう。イギリスやフランスのような西ヨーロッパ諸国においては、明らかにこの語の歴史は、ドイツは別として、変化に富んではいない」(9)と述べ、具体的に、「いうまでもなくこれらの国々では(観念論哲学以前の)古くからの源泉に由来する自由主義による〔社会〕解放運動が政治的に成功をおさめ、理論においても実践においても市民社会と国家とは伝統的に同一視され、それが姿をかえながら繰り返されたからである。
英語の〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉やフランス語の〈ソシエテ・シヴィル société civile〉は依然として政治社会と同義語であったのに対して、自由主義の伝統のうすいドイツでは市民社会と国家との対立が一九世紀初頭以来のこの語と概念の歴史を一貫して規定してきた。」(10)として示している。これは他の側面でも見られ、例えば、英語のCommunityが様々な意味を総括した一語として使用されている事例を我々に想起させてくれる。
リーデルが次に行った市民社会という用語についての言語連関系の区分は、市民社会の概念を研究する上で、一つの要綱的な規定となる素地を含んでいるといえよう。
〈市民社会〉という語を、それと関連する同義語や同音異義語との歴史的文献学的緊張の場に置きつつ、その歴史を全体的に概観すると、明らかに次のようないくつかの言語連関系が相互に区別される。(一)ギリシア−ラテン語的連関系。これは古典期ギリシア政治学から、ローマ法と聖書キリスト教を経て、スコラ哲学盛期におけるアリストテレスの再受容と近世初頭の自然法論に及ぶ。(二)市民的=自由主義的連関系。これは一八世紀から一九世紀にかけて自然法論より発展した。(三)社会主義的閥革命主義的な連関系。これは自然法論に刺激を受けたが、その後その《自由主義的》で《伝統主義的》な観念世界を見捨てた。(四)市民社会成立以後の市民社会の連関系。これらの連関系には、それぞれに様々な形で構築され構造化された用語法と特殊な理論形式が対応しており、これらは個々の相互に共通する点もあるが、およそ次のように分類される。(11)
すなわち第一の系の用語法は古典期ギリシア政治学(アリストテレス)によって、第二の系の用語法は近代自然法論(ホッブズ、カント)と合理的で歴史哲学的に基礎づけられた初期の社会理論(社会学)とによって、また最後に第四の言語系の用語法は、ヨーロッパの階級闘争や市民闘争の政治的に〈保守〉派ないしは〈革命〉派の防疫的戦略によって、それぞれ特徴づけられる。これらの用語法と理論はしばしば相互に混溝しているので、それぞれの局面や系を相互に正確に区分することはできない。こうして第一言語系に関係づけられる市民社会のポリスモデルは、なお第二の連関平面、つまり近代自然法論の契約モデルにおいても作用しており、後に第三の局面になって初めてその受け継がれてきた雛型は最終的に解消される。ここにいたって初めて概念のイデオロギー化の問題、つまりその複義性ないし多義性の問題が生まれる。このようなイデオロギー化は正確にはその概念を政治的-自然法論的伝統によって使用するという規準が失われ、そして近代の社会革命運動がその概念を社会の政治的なグループ別けの規準としてのみ使用する可能性を認めた時点に始まる。そうした規準の功能のいかんによっては社会的=歴史的世界にかかわる基本術語についての一般的な了解は、もはや認められないばかりでなく、言語=革命戦略的な理由によって無用とされる。(12)
上記の区分と解説は市民社会の概念史の要点を抜書きしたものであるといえる。つまり、用語法に基づく歴史的な区分という側面と、各学問体系に従った区分という側面を、並行して理解することが求められている。しかしながら、この区分の基底部は簡潔に説明できない多くの問題が存在している。それはまさにイデオロギーや志向に関する問題である。それぞれの市民社会への認識と用語法が合致したものであるかどうかという判別はできない。政治的な市民社会を踏まえて、この用語を使用しようという判断は決して安易なことではなく、一概には説明できない。ただし、区分の順序のように歴史的に古きから新しきへという過程に則して、市民社会の概念の変遷を捉えることは、歴史の進展と概念の変遷というニ項の関係性を把握するために有効であろう。その最初期が古典期ギリシア哲学である。
リーデルは、古典期ギリシア哲学における市民社会の概念について説明することから、市民社会に概念の実質的な史的考察を開始する。すなわち、「〈市民社会〉という語が政治哲学に採用されたのはアリストテレスにさかのぼる。ポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕というアリストテレスの造語に近似したいくつかの表現法はプラトンにみられるが、アリストテレス以前にこの表現が術語として確立されていたことは検証できない。しかしアリストテレスが、日常語において時にポリスを表わすものとしてすでに存在していた表現を採用しそして政治哲学上の専門的用語として学問的に《規準化》したと思われる。」(13)と述べ、アリストテレスはこの語を彼の『政治学』の冒頭についての説明を、「人々の間には様々な共同体〔社会〕の形態があり、そのうちのひとつが真に独立したもので、残りの〔共同体の〕ことごとくを支配している―これがいわゆる《市民》社会すなわち《政治》社会としてのポリスである」(14)というように行い、アリストテレス『政治学』冒頭の一節「それこそがポリスと呼ばれているもの、すなわちポリティケ・コイノニア〔政治的共同体〕なのである。」を引用している。(15) 更に、政治哲学とその一八世紀にいたるまでのヨーロッパにひろく存続した言語意識にとって、このアリストテレスの解釈は決定的な意味を担ったとしている。
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| 2008年10月7日(火) 22:46 [ 哲学史 ] |
第二部 市民社会の概念
第一章 市民社会の歴史的展開―M・リーデル『市民社会の概念史』
第一節 市民社会概念の歴史的系譜
第二節 二分法的解釈の意義―GemeinschaftとGesellschaft
序
本章の主たるテーマは、市民社会の概念の変遷を考察することである。第一部において行ったのは「共同体」、取り分けて古代周辺の考察であった。その主題である「共同体」が原初的な意味を持つ場合、第二部の「市民社会」は発展段階として位置付けられる。つまり、社会史という通史的理解における、共同体から市民社会へという一連の図式を前提として、次なるテーマである「市民社会」へと本稿は着目することになる。しかしながら、市民社会に仕向けるべき方法や観点は多くあり、収拾の付かないことは自明である。よって、先ず「概念の歴史」という主題に沿って論考を行いたい。けれでも、この方法も曖昧性を持ち合わせる観点であるといえる。そこで本章において、市民社会概念の歴史に関しての秀作であるマンフレート・リーデル『市民社会の概念史』(原書Geschichtliche Grundbegriffe, hrsg. Von Brunner/ Conze/ Koselleck, Bde. Klett-Cotta Stuttgart 1975-82)に示される要所を通読し、概略を取り纏めることで、「市民社会」の概念についての論究を行う。(1)
『市民社会の概念史』の著者マンフレート・リーデルは、1936年に旧東ドイツ・ザクセン州のエッツォルツハインに生まれ、1954年から1957年までライプツィヒ大学において、エルンスト・プロッホ、ヘルマン・アウグスト・コルフ、ハンス・マイヤーの指導を受けながら、哲学とドイツ文学を学んだ。しかし、社会主義国家に絶望したリーデルは、その後1957年に当時の西ドイツへ移住し、ハイデルベルク大学のカール・レーヴィット、ハンスーゲオルク・ガーダマーのもとで研鐙を積み、1960年に学位論文「へーゲル思想における理論と実践」を提出して、1968年に大学教授資格を取得した。1969年から2年間、ハイデルベルク大学、ザールブリュッケン大学などで私講師を務めたあと、1971年にエアランゲン・ニュルンベルク大学教授に就任した。現在はハレ・ヴイッテンベルク大学教授として、哲学を講じている。(2)
リーデルの主な研究テーマはへーゲル研究であるが、その対象領域は哲学、倫理学、法学、歴史学、社会学と多岐にわたっている。解釈学的批判主義という独自の方法論を駆使し、「市民社会における理論と実践」を考究する彼は、現代の知的最前線に立つ碩学である。一方、リーデルは1990年に、イタリア・ニーチェ賞を受賞し、1991年よりマルティン・ハイデガー協会の会長職を務めた。リーデルの著書は多数発刊され、世界十数か国の言語に翻訳されている。邦訳書は、『へーゲル法哲学ーその成立と構造』(清水正徳・山本道雄訳、福村出版、1976年)、『規範と価値判断倫理学の根本問題』(宮内陽子訳、御茶の水書房、1983年)、『解釈学と実践哲学』(河上倫逸、青木隆嘉、M・フーブリヒト編訳、以文社、1984年)、『へーゲルにおける市民社会と国家』(池田貞夫、平野英一訳、未来社、1985年)、『体系と歴史ーへーゲル哲学の歴史的位置』(高柳良治訳、御茶の水書房、1986年)が挙げられる。(3)
リーデル『市民社会の概念史』は、特定のシリーズに投稿された論考の集成であるにもかかわらず、「市民社会」を語る上では看過できない用語の変遷を中心とした概念史を仔細に論証している。『市民社会の概念史』の構成は、第一章においては「市民社会」を説明し、古代ギリシア時代から中世を経て近代の哲学領域に至るまでの市民社会概念の系譜を論理的に描写している。第二章においては「市民、公民、市民階層」を主題とし、同じく古代ギリシア時代からの市民や公民の概念的把握を行っている。第三章においては、「ゲゼルシャフト、ゲマインシャフト」が取り上げられ、伝統的なゲゼルシャフト理論の解説と、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという二分法の解釈に対する諸議論が述べられている。第四章においては、「システムと構造」という項目の下、伝統的なシステム論の把握と科学的なシステム学を中心とした議論が行われ、システムと構造に関する歴史的な経緯が述べられている。「市民社会」という本章のテーマに基づいて、本章は特に『市民社会の概念史』の第一章と第三章を参照することになる。
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