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ウィーンの路傍 パリの道標 山下祐樹

哲学史、芸術史、そして現代思想へ。

Magical Mystery Tour
2009年8月26日(水) 22:46 [ 思索 ]


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ロンドンを経て、どこへ向かうべきか。
やりたいこともたくさんあるし、やらなくてはならないことも多い。
そのためにどのようなことを準備すべきなのか。
帰国してから考え続けている。
それは新しい旅のことも考えながら。
ロンドンで美術史の一端を学びつつ、私は多くのことを考えた。
それが知識の一部となることや技術論の糧になることの他、
日本で見たあのゴーギャンの絵の如く、
「我々はどこから来 たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ということを考えた。
ロンドンでは多くの人と話をして、
今の自分の存在について考えたりした。
勿論、それだけでは何も分からない。
そんな中、パリという清涼剤もかなり心地好かった。
ロンドン、再びのパリを経て、今ここにいる。
そして或る決意が生まれた。
目指すべき道標。
それはまだ明かせない。
けれども、大切に育てていく。



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ビューティーポータル美市美座
London
2009年8月24日(月) 20:06 [ 藝術 ]

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ロンドンに行ってきました。
ロンドン大学付属のコートールド美術研究所のワークショップに参加し、
大英博物館やナショナルギャラりー、
テートブリテンを始めとした文化財機関に足を運び、諸々を学んできました。
一日だけはユーロスターでパリへ。


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Die Letzten sollen die Ersten sein
2009年8月15日(土) 20:36 [ 藝術 ]

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美術を教えている大学教授の叔父に私の描いた絵を見せたところ、色々とアドヴァイスを頂いた。その主たるものは、先日も言われていた、デッサンについて。その力を高めることが大きな鍵であるとのこと。

そしてもう一人、或る自動車メーカーの車体デザイナーである伯父にも作品展について話したところ、「恥をさらすことが大切で、それを自ら試みたことは評価すべき」とのこと。

ともあれ、26歳の挑戦について、真価が問われるのはこれからであるということなのだ。そんな意識が改めて高まった。来週は、そのための勉強をしに行くという一面もあるのだと思う。それにしても、身の回りには芸術分野で働く方が多いので、それぞれからインスピレーションを頂きながら、「自分であるならこうする」というスタイルを確立していきたい。

Die Letzten sollen die Ersten sein
Die Ersten sehen als Letzte ein:


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ロッチデール公正先駆者組合の形成
2009年8月15日(土) 10:51 [ 哲学史 ]

ロッチデール公正先駆者組合の形成
 店舗経営によって得られる利潤を分配することで店舗経営それ自体の「市民権」を確立するのは、オウエン主義的協同組合運動との関わりにおいては、ロッチデール公正先駆者組合(The Rochdale Society of Equitable Pinoneers)が最初である(54)。
 1844年頃のロッチデールの状況は、綿工業と毛織物とりわけフランネルの織物工業の盛んな地であり、またマンチェスターに隣接する地勢から「小さな市場」を成していたとされる。当時の人口は約25000人、近隣に約40000人が住んでいた。1830年頃から主要産業のフランネル生産に動力織機が導入され、1840年頃には、動力織機の競争が激しくなっていき、手織機の職工たちは蒸気力との競争に生き残るための絶望的な闘争の渦中にあったとされ、更にはフランネル産業自体も30年代から40年代を通してほとんど慢性的な不景気の状態にあった。綿工業の状態もフランネルのそれと大差無かった。労働者は失業と賃金の引下げそして食糧価格の高騰の重圧に見舞われていたとされる(55)。
 このような状況は「トラック・ショップ」や「トミー・ショップ」ロッチデールを生み出したのであった。失業と低賃金のために、労働者の生活は困窮をきわめたが、その上に「トラック・ショップ」や「トミー・ショップ」を利用して雇主や小商人たちが貧しい労働者を収奪した(56)。「トラック・ショップ」や「トミー・ショップ」はまさに「貧しいが故に収奪される制度」であり、雇主や小商人の店舗で彼らが供給する粗悪な必需品を法外な価格で購入することを労働者に強制するものであったと把握できる(57)。このような状況に対して、「オウエンがニュー・ラナーク工場の店舗で良質安価な必需品を自分の労働者に供給したのは、このような不法な収奪機構に対抗する開明的で博愛的な雇主としてであった」という実践がなされたのは大変有意義であった(58)。
 ロッチデールにおいても同様であり、ロッチデールの労働者の間で様々な運動を起さずにはいなかったとされる。加えて、「ロッチデールがマンチェスターとウエスト・ライディングとの間の交通にとっての一つの要衝であった」ことも、ロッチデールの労働運動が活発であったことの大きな要因であったようである(59)。このような状況下で、19世紀前半において、労働者階級の活動の中心地としてロッチデールが一歩譲ったのは、マンチェスターとリーズだけであった」という指摘からも分かるように、ロッチデールには、協同組合運動が展開される客観的条件と主体的条件が十分用意されていたと理解できる(60)。
 その内実は、つまり「ロッチデールの綿工業の労働者は、オウエン主義者J・ドハーティーの指導する全国労働保護協会に参加していたし、チャーティスト運動の指導者F・オコンナーはロッチデールを何度となく訪れては演説した。また先駆者たちのうちジェームズ・スタンドリングは10時間労働委員会の書記を務め、チャールズ・ハワースも10時間労働の闘争で活動していた。さらに反穀物法の運動でもロッチデールは活発な地域であった」ということである(61)。これらの運動を担うグループの性質について、他のグループとの関係を鑑みながら、中川は次のように説明している。

 これらの労働運動、すなわち、労働組合運動、チャーティスト運動、10時間労働運動そして反穀物法運動は、整然と判別されていたわけではなく、各々のグループは排他的ではなかった。というのは、それらの運動は、その根底において、すべて同じ「ナイフとフォークの問題」を孕んでいたからである。「多くのオウエン主義者はチャーティストでもあれば急進的な選挙法改正論者でもあった」し、多くのチャーティストは穀物法の廃止を望んでいた。ロッチデールではこれらの運動が交錯しながら展開されたのである。(62)

 まさに、排他的ではないという性質は、運動を実践し、効果をあげるためには重要である。そして、それを可能にさせた同一の目的ということを先ず勘案する必要があるだろう。各々の理念や方法は異なっていても、共通の目的のために運動を起こすということは、逆に、相互理解につなることを意味し、排他性を持することのない「協同」への可能性を模索させたということができる。そして、これらの労働運動の下で、その運動は更に加速した。この過程は、『協同組合の思想と理論』において、以下のような詳細な説明を加えた上で、段階的に示されている。つまり、「このような労働運動の状況の下で、ロッチデールでは賃金カットに反対するストライキが瀕発した。1842年のストライキは、結局敗北したのであるが、チャーティスト運動と結合して「政治ストライキ」の様相を呈した。このストライキで、先駆者の一人ジョージ・スコークロフトはロッチデールのチャーティスト運動の議長として活動した」(63)と説明されるのである。続いて、以下のような具体的な紹介がされるのであった。

1842年のストライキに続いて、1844年に「地方の雇主を協定賃金等級に復帰させる」ための大ストライキが起った。ホリヨークが『ロッチデールの先駆者たち』の中で、「ロッチデール組合の起源はある織物工たちの賃上げ運動の失敗にまでさかのぼらなければならない」と述べたストライキである。ホリヨークは、このストライキに参加している織物工に、仕事に就いている他の織物工が週2ペンスを拠出し、それがストライキ参加者の生活を支えたのであるが、この「2ペンスの拠出金」という考えこそ先駆者組合の「創業基金」創出のための「毎週の払込み金」という考えにつながった、と強調している。しかし、このホリヨークの主張は、コールも言っているように、さしたる意味はないと思われる。なぜなら、「ストライキ参加者を支援するために毎週募金をするということには、何ら新しい点はないし」、毎週募金をすることによってチャーティストの大会に代表を派遣することはいつも行なわれていたからである。それよりはむしろ、この「ストライキによってひき起された窮迫こそが、1844年にジェームズ・スミシーズの家に集まって、一体我々は何ができるであろうかと語り合った小さなグループがその踏見出すべき一歩を決めるにあ(9)
たっての重要な要因であったのである」。(64)

 続いて、『協同組合の思想と理論』は上に示される先駆者組合に先立つロッチデールにおける協同組合運動に着目している(65)。その協同組合運動とは、1830年のロッチデール友愛組合と、その組合を基礎に1833年に設立された「ロッチデールでの最初の協同組合店舗」とされる「協同組合店」(Co-operative shop)である(66)。
 1830年に設立されたロッチデール友愛組合はフランネルを他の協同組合に供給する「協同組合工場」=生産組合であった。その組合は1830年に形成され、ロッチデール友愛組合の名称を用いている。組合員は52名であり、基金総額は108ポンドである。組合は10名の組合員とその家族を雇用している。組合はフランネルを製造している。組合は蔵書として32冊を保有している。組合は学校をもっておらず、労働交換所の原理を討議していない。近辺には他に二組合があったとされる(67)。これらは「協同組合店は、いろいろな種類の食糧品を組合員に信用掛で供給し、顧客名簿にそれを記入した。つまり、協同組合店舗経営の崩壊の最大の原因であった掛売りを行なったのである。組合員の借金は週末に返済される規則になっていたが、借金は増えることはあっても減ることはほとんどなかった。返済は当然不履行となる。こうして1835年に協同組合店はドアを閉じたのであるが、やがてここでの失敗の経験は、設立者のハワースやスタンドリングを通じて先駆者組合の運動に生かされる」(68)といったような展開を見せたのであった。
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イギリス協同組合運動の創始2
2009年8月15日(土) 10:50 [ 哲学史 ]

 この小規模な共同体から始めるという方針について興味深い論争を見ることができる。すなわち、それは、小規模な共同体から始めるという方針はW・トンプソンをはじめ多数の指導者によって賛同されたものの、初めから大規模な共同体の建設を目指すオウエンとの対立を強めることになる(43)。ただし、「小規模な共同体から開始するという目標は、共同体建設基金を労働者自身のために、自らの力で調達しようとする意思表現であった」ということは看過できない。以降の状況について見ると、「ロンドン協同組合は、大規模な共同体の建設というオウエン流の方式が基金調達を不可能にさせることを知り、小規模な共同体の建設へと方針を変更し、そして基金を店舗経営によって蓄積する運動を展開した。ロンドン協同組合の内部では、先の補助基金のほかに共同交換組合(The United Exchange Society)も設立され、組合員労働者自らの手で共同体建設基金を獲得するという方向が定着することになった」のである(44)。そして、中川は「協同組合共同体の建設という目的とその目的を達成するための手段としての店舗経営がこうして統一されてオウエン主義的協同組合運動の特徴を示すことになるのである。ロンドン協同組合の歴史的位置は大きいと言わなければならない」(45)と評価しており、つまり、ロンドン協同組合は後世へのオウエン主義の影響の一表現であるといえる。
 イギリス協同組合運動の思想面を支えた最たる人物はウィリアム・キング(William King)である。キングは「オウエン主義的協同組合運動に大きな影響を与えた。実際、彼は特に、オウエン主義的協同組合運動における店舗経営の位置づけを明確にした点で特筆される。キングは自分の協同組合思想を、彼自らが編集し発行した『協同組合人』(The Co-operator)で展開し、労働者にわかりやすい言葉で協同組合の思想や理念を語りかけた」のであった(46)。 
 キングは『協同組合人』第六号で、協同組合の「目的」と「目的を達成する方法」を次のように示したとして、『協同組合の思想と理論』における引用が見られる。すなわち、それらは「目的として、貧困に対する組合員の相互の保護。生活安楽に過すための品物のより大きな分け前の獲得。共同資本による独立の達成」。「方法として、第一に、共同資本の形成のために週6ペンス以上出資する。第二に、通常行なわれている方法とは違った方法でこの出資金を使用する。すなわち、(貯蓄銀行への)投資にではなく、取引きに使用する。第三に、この出資金は、十分に蓄積されたならば、組合(員)むけの製造業に使用される。第四に、資本がさらに蓄積されたならば、それは土地の購入とその土地での共同生活のために使用される」(47)という提言である。かくよう、キングの協同組合思想の要点である協同組合共同体の思想へと繋がるのである。その内容とは中川によると以下のように概説できる。

 キングは協同組合共同体の建設を提唱している。彼はすでに『協同組合人』第一号で、「資本が十分に蓄積されたならば、(協同)組合は土地を購入し、組合員自らがそこで生活し、その土地を耕作しそして組合員の欲する製造品を生産し、かくして衣食住についての組合員のすべての欲求を満たしうるのである。その時には、組合は共同体 Communityと呼ばれるであろう」と明言している。キングは、本来的には、協同組合の「目的」は協同組合共同体の建設によって実現される、と考えていたのである。「目的を達成する方法」の順序はそのための段階を示しているのである。キングにとって重要なことは、いかにして「資本を蓄積するか」ということであり、したがって彼の協同組合論は「資本をどうすれば集められるか」ということを軸にして展開され、「資本の蓄積の可能性」を追求するところに特徴がある。先の「方法」を四段階に分けた理由もその点にある。(48)

 加えて、キングの経済理論とは、当時の他の協同組合運動の理論的指導者たちと同様、「全労働収益権」を基礎に展開されているとされる(49)。そこで、着目すべきは、彼は資本それ自体を決して否定せず、むしろ資本は不可欠な要素であると捉える点である。そこの視点において、キングは「誰が資本を所有するのか」を問題と捉える。すなわち、「資本と労働」が分離し、一方に資本家が、他方に労働者が存在する社会にあっては、労働者は「自分自身のためではなく、他人のために労働」しなければならない。そのような状態の下では、「資本と労働」は対立し、資本(家)が労働(者)を支配するという非難すべき状況が生じるということである(50)。
 要するに、労働者が「自分自身のために労働する」ためには、「資本と労働」を結合すればよいのであるが、現行の社会状態の下では、「資本と労働」の結合は、実は資本と労働の分離を前提としてのことなのである。それ故、肝要なことは、「労働から資本を分離しない」こと、すなわち、労働と資本との「自然的同盟」の関係を確立することが求められているとキングは唱えているのである(51)。すなわち、「自然的同盟」の成立に向かって、「労働者が孤立して活動する限り、彼らは自分たち自身のために労働することができない。というのは、そうするためには、彼らには資本が欠けているからである。しかし、もし多数の労働者が協同組合に共に参加するならば、彼らはやがて、彼らが現に親方の資本で親方のために労働しているのと同じように容易に、彼らの資本で自分たち自身のために労働できる資本を節約することが可能なのである」としている(52)。中川の考察によると、キングは、個人的にはなしえない労働者による「資本の所有」を、先に述べた「方法」に基づいて、集団的に実現しようとしたと理解されうる。そして、キングは、資本主義的な「資本と労働」の関係を協同組合的な「資本と労働」の関係に置き換えることによって、全労働収益権を実現する。そして、労働者の貧困を救済し、さらに共同資本の形成による「独立」の達成を企図したということが分かるのである(53)。

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イギリス協同組合運動の創始1
2009年8月15日(土) 10:49 [ 哲学史 ]

イギリス協同組合運動の創始
 『協同組合の思想と理論』において、イギリスの協同組合運動を歴史区分ごとに把握する論考がなされている。その区分にしたがって、イギリス協同組合運動の創始の様相について着目する。先ず第一と第二の時期は以下のように概観されている。

 第一の時期はいわゆる原生(基)的協同組合運動(あるいは初期協同組合運動)と称される時期である。それは1760年にウーリッチ(Woolwich)とチャタム(Chatham)に船大工たちによって設立された協同製粉所から1820年以降オウエン主義思想が協同組合運動の指針となる前までの、およそ60年の長きにわたる時期である。原生的協同組合運動は、食糧品の価格騰貴に対抗する労働者の自然発生的、地方分散的性格の強い運動であって、運動を導く理念あるいは思想が欠如していたために、統一的な運動を構成しえず、大多数の協同組合は「孤立した実験」に終ってしまった。(33)

 次の第二の時期は、オウエンがその協同組合思想によって原生的協同組合運動に一定の方向づけを与えて、協同組合を資本主義経済体制にとって代わる社会経済的体制であることを明確に示したことによって、オウエン主義的協同組合運動(The Owentie Co-operative movement)が華々しく展開された1820年代の初めから1840年代中葉までの、およそ四半世紀にわたる時期である。この時期にあっては、協同組合共同体の建設こそが協同組合運動の企図するところであり、協同組合運動の「究極目的」であった。(34)

 またこの第二の時期は、近代的協同組合運動の創始であるロッチデール公正先駆者組合を生み出す思想的、実践的基礎を用意したイギリス協同組合運動史上の重要な時期である。「オウエン=協同組合思想の父」のもつ意義もこの点にあるのであり、以下に述べる協同経済組合とロンドン協同組合の歴史的意義についてもそのような観点から考察されるであろうし、さらに第五節で述べるウィリアム・キングの協同組合思想もこの第二の時期の重要かつ歴史的産物であったことに留意しなければならないであろう。(35)

 より詳細に見ていくと、近代的協同組合の出発点として認められる協同経済組合(The Co-operative and Economical Society)の設立は、1821年1月22日の、オウエン主義者ジョージ・ミューディー(G・Mudie)を指導者とする印刷工の集会で決議され、翌23日に創設されたのであるが、すでにそれ以前の1820年8月に彼らは「労働階級の状態と社会全体の実質的改善を遂行する」ためにミューディーが提案した「組合計画」について検討していた。その結果、「組合計画」を採用すること、またそのために必要な建物をロンドンの便利の良い場所に建設することが決定されたということであった(36)。そしてこの決定に基づいて発表された『印刷工の集会で任命された委員会報告』は以下のように引用される。
 
相互協同の計画を採用した結果生じると思われる利益」のうち「金銭的利益は二つの源泉ー我々の経費の節約と我々自身によって生産される新しい富―から生じるであろう。第一に、個人的な生活計画に基づいて小さな小売店で少量しか―しばしば掛け買いで―一般に得られない食糧品やその他の商品を、即金払いの卸売り価格で購入することによって生み出される節約から。第二に、料理、醸造、パン焼き、洗濯そして部屋の掃除のための用具の費用の節約から。…第三に、光熱費の節約と食物の準備から。…第四に、家事労働の分割の結果、共同体の女性によって節約される時間の価値から。節約された時閤は現に我々が支払わざるをえないサーヴィスを遂行する際に有利に使用されうるし、また使用されうるであろう。(37)

 「組合計画」は、様々な形で得られる「金銭的利益」を基礎に、250家族の共同生活の確立を目指して実践に移される。そしてこの共同体は、労動者の「独立を導くための力を備える」完全な自治組織であり、また『報告』の言う第二の「金銭的利益」の源泉である「新しい富」は「土地の耕作かあるいは組合による製造業からつくりだされる富」なのであるから、生産設備・施設を所有する生産組織であるとされている(38)。成人男子の組合員が毎週1ギニー(21シリング)の拠出金によって一般基金を形成し、その基金で「一切の生活必需品と豊富な多数の生活の安楽品を共同体に供給」することから、生活共同の組織であるということが分かる(39)。つまりこれは、「『報告』が描いた組合は、生産の組織を有し、共同生活を基礎とする自律した自主管理による共同体」であるといえる(40)。以降の具体的な動向については以下に示す通りである。
 
1824年、協同経済組合をより発展させた形で組合がロンドン協同組合である。ロンドン協同組合は「二つの制度―個人的競争と相互協同―のメリットに関する議論」を通じて「ロンドンの50マイル以内に共同体を建設する」計画を提案した。そしてこれらの目的を達成するために、1826年1月に機関誌『協同組合雑誌』が発行された。『協同組合雑誌』は、創刊当時、ニュー・ハーモニーやオービストン共同体などの「共同体実験」の進行状況についての記述に多くを割いた。だが、ロンドン協同組合は単にこれらの実験を観察していただけでなく、自らも「ロンドンの50マイル以内に共同体を建設する」計画を立て、オウエンの援助を期待しつつ1826年に4000ポンドの資金を集めた。しかし、基金目標の50000ポンドには遠く及ばず、計画は前進しなかった。(41)

 1826年7月、ロンドン協同組合に「協同組合共同体基金協会」(The Co-operative Community Found Association)が開設された。この協会は「比較的小規模な協同組合共同体を形成するための基金を集めるために、ロンドン協同組合の何人かの組合員の協力により取り結ばれた」組織である。協会は、基金が500ポンドに達したならば、適当な広さの土地を賃借し、最初の農作物を栽培し、そして建物を建築するために労働者を雇用する。協会の会員はその時までに25ポンドを出資して土地と建物の準備を完了し、製造業と農業の結合によって安楽と繁栄の共同体を建設引翠というものである。みられるように、協会は大規模な目標ではなく、小規模な共同体建設から開始すべき方針を採っている。先に述べた50000ポンドの規模の共同体建設運動は少なくとも労働者の運動としては明らかに困難であったし、彼らの運動の範囲外のものであった。それよりはむしろ、小規模な共同体は「適当な時期がくれば、いつでも容易に融合し合い、それによって大規模な共同体を形成しうる」のであるから、労働者の能力の範囲内で運動を開始すべきである、としたのである。(42)

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オウエンと生活空間
2009年8月15日(土) 10:48 [ 哲学史 ]

オウエンと生活空間
 ロバート・オウエンの市民社会批判は前章において示した。ここにおけるオウエンへの眼差しは生活空間という共同体・協同体に重点を置くことにする。いわば、理想から実践への流れとして、現実的な生活空間に理想をいかに適応させるかという、採用させるかという点がまず必要となる。結局、未達成のままに終了したオウエンの実践についても、その課題が今に至っても問われ続けているといえよう。
 オウエンは、生活環境改善による人間力能の開花と「ヒューマンな協同社会形成」(human Community-making)との一体的実現を目指し、不滅の示唆を今日にまで与えつづけている。
オウエンが後世まで名をのこした事業である労働者の生活改革や生活環境改革にのりだすのは28歳で、1800年1月1日頃に、ニュー・ラナークの統治にとりかかった時点からである。このスコットランドの紡績工場の町は約1700名の人々から成りたっていたが、経営不振の理由として、労働者の生活が荒廃していること、その底に、「彼らの子供達が幼いときから育てている家の設備が親にも子にも殊に有害なのだ」と知った。そこで彼は、世界最初の幼稚園創設と労働者教育の実績に立って「一致と協同の村」(Village of Unity and co-operation)の創造を世に問うた。これが1814年の『新社会観』であり、ニュー・ラナークで2500人にふくれあがった人々を管理し成功した進歩的ブルジョアジーの主張であったとされる19)。
 オウエンが紡績工場経営者として出発した1780-90年代のイギリスでは、産業革命が急速に進行していた。蒸気機関や新しい機械が次々に登場し、工場制手工業を近代的大工業に変え、ブルジョア社会を根底から変革しつつあった。大資本家とプロレタリアートへの社会の分裂が恐るべき勢いで進行し、かつての「中流階級」は急速に没落し不安定な生活を強いられた。都市には農村から流入した貧民たちが溢れ、家族制度など伝統的紐帯は弛み、犯罪が横行し、労働者大衆の堕落が深刻になっていた(20)。
 ニュー・ラナークでの実験については、オウエン自身が自らの「性格形成論」を展開した文献、『社会に関する新見解』(1813-14年公刊)で詳しく論じている。ニュー・ラナークでの実践は彼にとって人間は環境の産物であり、したがって環境を変えることによって人間を変えることができるという理論を実証する活動でもあったのである(21)。
 この計画は、最大生産性・都市と農村の幸福な結合・労働成果の平等配分.精神労働と肉体労働の差別廃止・私益と公益の差別廃止という五つのコンセプトから立案されている。また、その実現のために、人口・面積・生活施設.管理施設・自給都市と他地域との関係・政府との関係という六つのフレームが明記されている。このコミュニティでは、共同の冷暖房施設を備えた四棟の労働者集合住宅が、花壇や遊び場や共同炊事場・共同食堂・学校・教会という施設を方形状に囲んでいる。また、連棟式共同住宅の中央には、病院やホテルなどの都市施設が用意され、その外側には、工場労働者が耕作する農地がひろがり、さらに四辺が植林でカバーされた農地の外に工場がセットされている(22)。
 このコミュニティは、それぞれが協同原理に基づいて住民自治で運営される自給都市であって、農工一致・職住近接原理へのコミュニティ群から成る新社会では、地域社会の自治と安価な政府と社会主義の融合実現の基礎とされている(23)。オウエンの構想は、現代都市・農村の居住環境の非人間性、家庭基盤の弱体化からの家族崩壊に対して、彼の自給都市・地域主義の発想が、分業の廃止と人間的諸能力の開花の可能性を多く含んでいるのである。
 産業革命がもたらした人間疎外現象のネガティブな側面とともに、オーエンは科学や工業のポジティブな生産力側面を見ている。当時の人口が1100万人であった「この帝国内における新しい機械力・化学力は、二億以上の人口の筋肉労働に代位した」(24)。この工業力が、労働者の疎外からの解放にも力を発揮すること、また労働者の居住環境改善がその必須条件であるとして、まさに良好な生活空間を重視したのである(25)。
 その立場は、技術革新に対応しうる良質労働力の長期確保であったが、それから七年たって書かれた『ラナーク州に対する報告書』の内容は、彼が理想主義的社会主義者に転じたことを示している。しかも、ここで描写された農村生活と結合された労働者の生産と生活の都市空間デザインは、後の田園都市構想の源であり、実現可能なものとして、「ウーデポイア・ポリーティア」(どこにもない都市共同体・ユートピア)を超えるものであった(26)。
 世界的な都市計画史家であるL・ベネヴォロは、「このオウエンの提案は、政治経済的な前提から建物の計画、予算見積りにいたるまでのあらゆる面から検討された近代都市計画の最初のものであった」と高く評価している(27)。
 ニュー・ラナークの実験により、オウエンは一躍博愛家、慈善家としてブルジョア社会でもてはやされるようになり、ニュー・ラナークはやがて「社会改良者のメッカ」と言われるようになった。しかし、彼はこの成功だけでは満足しなかった。ニュー・ラナークでできたことは社会全体でできるはずだし、また社会全体で採用しない限り、本当の意義は明らかにならないと考えたのである(28)。
 オウエンの共産主義プランは、1820年のイギリス全土を襲った恐慌後、徐々に具体的な形を取るが、それがある程度まとまった形を取ったのは、ニュー・ラナーク州庁に依頼されて失業の原因を分析し報告した文書、『ラナーク州への報告』(1821年)だとされている。オウエンはこうしたプランを抱いて1824年にアメリカに渡り、「ニュー・ハーモニー協同体」の建設に乗り出すが、意見の対立や金銭上のトラブルから28年には退村を余儀なくされ、イギリスに戻る。彼がアメリカ滞在中の1826年7月4日、アメリカ建国五十年記念の日におこなった演説、「精神的独立宣言」はこの頃の彼の思想的到達点を示しているとされる(29)。彼はその中で、「悪の三位一体」として「私有財産、矛盾と不合理な宗教、それらいずれか一つとした結合した不合理な結婚制度」を挙げ、それらの「奴隷」として生きてきた人類の解放を謳ったのである(30)。
 オウエンによる、当時の生活空間の悪状況に対しての批判は、時代後者に受け継がれることになる、それはすなわち、ビクトリア朝の繁栄期における大都市の平均死亡年数が15-17歳であり、その原因が酷すぎる住宅・都市環境にあることを訴えたエドウィン・チャドイック(Edwin Chadwick)の『イギリスにおける労働者の衛生状態』であった(31)。これは医師チャドイックが議会の委託によって実態調査した結果、都市スラムでの惨状が1842年に公表され、為政者の危機感を触発して、1848年に「公衆衛生法」が施行され、下水道整備を始めとする都市環境整備事業が開始された。チャドイックは、労働者が充分な生活を営むに足る賃金を得ながら、ことに飲酒の悪癖で身を持ちくずし、地下室や屋根裏部屋で狭少過密でかつ不潔な居住環境のもとで伝染病で年若く死んでゆく労働者像を問題にしたのであった(32)。イギリスにおける労働運動には、オウエン以降のチャーチスト運動からフェビアン社会主義に至るまで、労働条件改善、平等な所得分配と並んで、住宅改善・都市改革の思想と運動が脈々と流れているといえる。
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オウエン前史
2009年8月15日(土) 10:46 [ 哲学史 ]

オウエン前史
プロックホイの協同思想
 『協同組合の思想と理論』においてオウエン前史の嚆矢としてオランダ人P・C・プロックホイ(Peter Cornelis Plockhoy)を挙げている。彼は1659年に『様々な国の貧民を幸福にするための一方法』(A Way Propounded to Make the poor in these and other Nations happy)を著わした。当時における王政復古の余波は、大地主の利益を保証しつつ、土地所有の近代化を促したが、しかし他方では、農業労働者やその他の下層階級の状態を悪化させていたとされる(4)。プロックホイはこのような「市民戦争と共和制時代の社会的動揺の経験に刺激されて、社会改革の理想を抱く」ようになった。彼は元来、宗教問題に大きな関心をもっていたが、この『一方法』では、キリスト教的精神を高唱したものの宗教問題にはほとんど触れずに、「小共和国」における救済制度を論じている(5)。
 プロックホイ『一方法』における提案は、どうすれば貧民に仕事を与え、その国全体の福祉を高め得るか、ということであった。彼は、当時の最大の社会的弊害は貧民の失業であり、またその結果としての貧困と社会的不平等であるとされ、「失業の問題を解決することなしには社会一般の福祉の向上はありえない」という理念が根本に置かれた(6)。
 プロックホイの協同思想について、『協同組合の思想と理論』の著者、中川は以下のように纏めている。「このように極めて現実的であり、そのために完全な国家や共同体といった観点からの提案として表現されない。むしろ彼の協同思想は「部分的な解決」を提示しているものであると言ってよい。というのは、彼は、当時大きな力をもっていたオランダ経済を熟知しており、そのオランダ経済の発展がオランダの「福祉の増大」を導いた事実に気づいていたので、「失業の問題」と「経済力の増大」とを容易に結びつけてしまったからである」(7)。
加えて、プロックホイはまた、「経済力の増大」を「大規模な企業」と同一視し、「小共和国」=共同体を農業、工業および商業を結合した一つの企業として描いて、理想の「小共和国」を提示したとされる(8)。中川は以下のように具体的に説明している。
 その小共和国という形をとる共同体によって、農業、工業および商業の有機的結合に基づく大規模な経済単位を形成し、それによって外部の他の企業との競争に勝ち、生活必需品の価格を引下げて市場に対して大きな影響力をもつようになり、かくして組合員の生活水準を引上げることを可能にするというものである。また彼は、共同生活による家事労働の節約とその結果としての生産活動への女性の参加、生活必需品の大量共同購入による節約=(中間利潤の排除)といった共同生活がもたらす利益を強調している。(9)

その共同生活について具体的に示すと、組合員としてこの共同体に参加するには一定の資金を拠出するか不動産を提供しなければならない。ここを脱退する場合には「利潤を加算した自己の財産」を返済してもらえる。共同体を運営していくために、三人の管理者が毎年選挙される(再選は許される)。他に若干の監督者も選挙される。一年かあるいは半年毎に財政報告がなされ、利潤は組合員の間で分配される。非組合員が雇用される可能性は開かれているが、彼らの賃金は組合員家族に支払われる賃金と異なる。教育と医療は無料、老齢の組合員の世話は共同体によって十分になされる。労働時間は、多少の変化はあるが、組合員の場合は一日六時間、非組合員の場合はその倍の12時間である。共同体は都市と農村に各々倉庫として役立つ大きな建物を設置する。都市の建物は生活必需品の店舗をもち、20から30家族を収容する。農村の建物は河川の近辺に設置され、生産の中枢部を成す。という小共和国を構想している。(10)

 プロックホイの想定は多くの空想的な側面を持ち合わせながらも、ここに見るように具体的な構想も含まれ、現実性のある内容であったように考えられる。そして内容は、以降の協同組合思想に見られる「コミュニティ」の構想にも影響を与えたことが分かる。
 続いて、イギリス協同思想が強烈な体制批判を展開したのは、マルクスが「経済学史上の真の奇才」と称したジョン・ベラーズ(John Bellers)においてであった。彼は1695年に『産業学校建設の提案』(Proposal for raising a College of Industry)を著わし、その中で次のようなモットーを説いた。それは「勤労は繁栄をもたらす。怠惰なる者はボロをまとえ。働かざる者食うべからず」(11)であり、「仕事の無い貧民は磨かれないままのダイヤモンドであり、その価値は未知である。人民のいない土地は何の価値もないが、それと反対に、規則正しく労働する人民は王国の最大の宝であり強みである」(12)と表現している。これは労働者がいなければ貴族もありえないからであり、またもし貧しい労働者が自らを維持する以上の食糧や製品をつくりださないとすれば、すべての貴族は労働者にならなければならないし、すべての怠惰な者は餓死するしかないからであるとされる(13)。
 ベラーズの信念は彼の思想を端的に表現しているとされる。彼が貧民に大きな関心を寄せた動機は、貴族を貴族として存続させるには貧民の適当な労働が必要であり、それによって国家的利益が確保されるのである考えられるが、実際は、当時の国家的政策であった重商主義政策に対する批判を彼が展開するためであったとされる(14)。すなわち、「貿易差額に基礎を置く重商主義政策に反対して、農業を中心とする諸産業間のバランスのとれた発展を主張したのも、また貨幣を排して労働を価値の尺度とすることを主張したのもそのためであった」とされている(15)。これらの理想を含意されつつ、ベラーズは具体的に以下のような試みを提言している。

 ベラーズは貨幣の排除という点では徹底していた。ベラーズは「このカレッジ共同体では、貨幣ではなく労働がすべての必需品を評価する尺度となる」、「政治体にとって貨幣とは体の不自由な人の松葉杖のようなものであり、不自由でない人にはかえって松葉杖は厄介である。同じように、個人の利益が公共の利益となるとき、こういう共同体では貨幣はほとんど無用となる」と主張する。
 ベラーズの「産業学校」は、プロックホイと同じように、「市民社会の変革」を企図したものではなかったが、しかし、労働を重視し、貧民に雇用を保証することが富者の義務であり、それがまた富者に利益をもたらすという、労働者と新興の資本家との間の「調和の思想」を展開して、鋭く重商主義体制を批判した。
 ベラーズの「産業学校」は次のような内容である。農業と工業と商業の各産業部門があり(農業生産を中心にしていることは先に述べたとおりである)、失業者に住宅施設を与え、衣類、医療、老齢年金、児童教育を施し、高賃金を支払う。そして集団の努力でできる限り自給し、そのために使用可能な労働を雇用し、荒蕪地を耕作して生産力を高め、生活水準全体を引上げていく。(16)

 他方、ベラーズは労働と教育を結合するよう提唱し、労働それ自体が教育であると主張することによって「産業学校」を、「貧民の救済施設」としてではなく、自給自足の「労働植民地」生産共同体として「提案」することができたとされる(17)。中川は「ベラーズの協同思想は、農業生産を共同体の基礎とする点、貨幣を排除して労働を価値の尺度とする点そして労働と教育を結合する点においてロバート・オウエンの『ラナーク州への報告』を想起させる」と述べている(18)。オウエンへの影響史という点では、ベラーズにその源泉があるように思われる。

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協同組合の構想と展開
2009年8月15日(土) 10:45 [ 哲学史 ]

第一節 協同組合の構想と展開

 協同組合の思想性に関しての的確な知識内容を得られる研究書、松村善四郎・中川雄一郎著『協同組合の思想と理論』は協同組合の意味についての以下のような解説がその冒頭に置かれている。 

 協同組合思想は、一般に、近代資本主義の確立過程で生起した社会経済的・産業的激変―産業革命―が生み出した諸々の事態に対応して形成された社会思想の一つであり、「共同の生活」や「共同の生産と消費」という理想を掲げた労働者階級が協同組合組織を通じて実現しようとした理念である、と言えよう。そしてその理念に基づいて、自らの理想の実現のための運動を構成し促進して、一定の歴史的、社会的役割を果たしたのである。
 しかしながら、社会思想としての協同組合思想は、ある特定の社会の変化や発展のなかから直接的、無媒介的に生みだされたものではない。社会思想は、何よりも「体系としての思想」である。過去の歴史の過程で生まれてきた様々な思想が滋養となって各々の時代の思想として開花し、当面する事態に対応すべき指針を提示するのである。その意味で、協同組合思想はそれが形成され展開される以前に生み出された様々な「協同」を原理とする思想を媒介に再編されて大衆的基磐の上に新しい社会的理念として定着していった思想である、とも言えよう(1)。

 そして、協同組合思想による「当面する事態への対応」という表現は歴史の一定の段階で生み出された矛盾―経済的、社会的秩序と現実の生活との間に生じたギャップ―を人々が克服するために展開された運動、として認識される(2)。すなわち、「イギリスにおいては、それは、産業革命の進展によって確立し発展していった資本主義的商品生産が一方で商品経済によって疎外され、他方でその同じ商品経済にますます引き込まれていく労働者を階級としてつくりあげ、そしてその結果、その同じ労働者階級が「協同」を原理とする社会を、協同組合組織を基礎に建設しようとする経済的、社会的運動であった、と。とはいえ、かかる経済的、社会的運動の理念としての協同組合思想が真に大衆的な基盤の上に展開されるにはロバート・オウエンの出現を待たなければならなかったのである」(3)。
 つまり前章にて示した市民社会批判の系譜は、同じく考察したオウエンを以って、この協同組合思想へと繋がるといえる。本節は、オウエン前史を含めて、近代における協同組合思想の成立過程について、その多くを松村善四郎・中川雄一郎著『協同組合の思想と理論』に依拠しながら論じていく。本節にて、特に注目するのはイギリスにおける協同組合思想の系譜である。

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市民社会批判の実践的諸理論
2009年8月15日(土) 10:44 [ 哲学史 ]

市民社会批判の実践的諸理論
第一節 協同組合の構想と展開
第二節 社会教育の実践的諸相と理想像



 本章は、前章の市民社会批判の諸理論に基づき、より実践的な意味を持つ構想について論じる。本章において論じるのは、「協同組合」および「社会教育」である。これらの選択理由は、市民社会批判から共同体の再構築へという理念において、より実践的な内容を含み、その理念へ寄与したということに鑑みる場合、これらの流脈が一つの答えとしてみなされるからである。また、前章で述べた市民社会批判の内容を汲みつつ、体系化され、一般市民にも多くの理解を得られたこれらの理念は、共同体の再構築、人間と人間との共生に向けて大きな試金石となったと表現してもよいであろう。そして、それらに「運動」という言葉を追加してもよいほど、人々が積極的にそれらの理想を追求し、議論し、すなわち、実践したという歴史的経緯を覗うことができる。
 本章が着目するのは、節ごとに、協同組合、社会教育の理論が実践される過程についてである。特に重点を置くのは実践的諸理論という名目からも分かるように、実践に向けての思考や議論の部分である。つまり、実践の歴史について論じることになる。いうなれば、それは種子が発芽し、成長する時期についての考察である。勿論、その成長は今日においても維持され、開花や結実への努力が続けられているのである。ただし、この実践は双方が関連し同時代的に行われた面もあるが、一定の時期の実践ではないということを示す必要がある。例えば、協同組合などの組合運動の源流を近代から抽出することもできれば、社会教育の場合はその理論の具現化が第二次世界大戦後であることなど、各々の実践理論について考察する時期を一点に定めることはできない。
 しかしながら、この実践はいずれも市民社会批判の後方に位置し、それらについての関心が高まった時期は同じであると考えていいだろう。つまり、それらは資本主義経済に基づいた市民社会の問題が噴出する時期である。産業革命の進展に伴い、国家レベルでは富の増大が見られたものの、個人レベルでは貧困や病害という問題を抱える人々が増大したという事実がある。ところが、かつての共同体は崩壊を来たしており、そのような人々を保護する余地を見なかった。そこに、市民社会批判に由来する共同体再構築への流れとしての各実践の理念が具体的な内容をもってより現実的な立場として出現したと捉えられる。すなわち、明確な意味で言うなら、共同体の再構築という目的を持った上で、市民社会の問題点を克服するために、かつての共同体では普通に行われていた実践を再び行おうとする構想が打ち立てられたといえよう。その共同体という概念は、共同体論の部分で論じたとおり抽象的な概念ではあるものの、共通している認識は、人間相互の共生が果たされていたという意味を持している。かつての共同体における、共同の農作物管理、共同食事、相互扶助、労わりや支え合い、介護、年長者から年少者への教育、世代間を越えた教育などの行為を再認識し、市民社会の市民として生きながら、これらの共同体的な側面を再生させるための実践が、協同組合、社会福祉、社会教育であると筆者は捉えたのである。
 これらは実質的に19世紀に入ってから様々な実践として試みられたといえる。この序論においては、それ以前に興味深い実例を紹介したい。すなわち、それは「コーヒー・ハウス」である。
 コーヒーハウスとは、17世紀の後半以降、イギリスの市民階級の集うクラブ・ハウスのことである。イギリスにコーヒーが輸入され、1650年には、第一号のコーヒーハウスがオックスフォードにつくられ、1699年にはロンドンだけでも2000以上のコーヒーハウスが軒を並べた(1)。そのほか、ケンブリッジ、ブリストル、プリマゥス、チェスター、シェフィールド、エジンバラ、グラスゴーなどにもコーヒーハウスがつくられていた(2)。コーヒーハウスにおいて、人々はコーヒーを飲み、集まった人々は互いに雑談し、政治・宗教・文学・科学に関する議論も行った(3)。
 コーヒーハウスでは、「お金を払いさえすれば、誰でも、身分に関係なくナイトであろうと平民であろうと、主教であろうと牧師補であろうと、富める商人であろうと貧しい徒弟であろうと、空いている席に自由にすわって、誰とでも話すことができ、どのような討論にも加わるできる」のであり(4)、「コーヒーハウスはあらゆる種類の人を、富める人も貧しい人も、教養のある人もない人も、みんな社交的にしてしまう。コーヒーハウスは芸術を、商品を、そしてその他すべての知識を進歩させる。なぜなら、そこには、好奇心の強い人々が最初から勉強してやろうというつもりで集まってきていて、本で読めば一ヶ月もかかりそうなところをひと晩でものにしてしまうのだから。彼は、自分が知りたいと思っている問題に造詣の深い人々がしばしば集まりそうなコーヒーハウスを探して行くこともできるし、他の人が読んだり研究したりしたことのエッセンスだけを、短い時間で吸収したり、容易にその水準にまで到達したりすることもできるのである」(5)という状況であった。このように、コーヒーハウスは、極めて近代的であり民主的な文化機関であった。文化機関とは、コーヒーハウスに出入りする人々にとってそこは知識と教養の源泉であったということであり、近代的とは、のちにも述べるように、ほかならぬ新興市民階級にとっての知識と教養の源泉であったということであり、民主的とは、すでに述べたように、身分や貧富に関係なく、誰でもいつでも好きなときに利用できるものであった、ということである(6)。
 しかし、名誉革命を前後し、そのようなコーヒーハウスの状況が変化した。この時期は市民革命後の市民社会への大きな関心の時期である。市民社会についての様々な議論と同時に、市民階級が社交の中心を担う状況へと変化し、すなわちコーヒーハウスも変化を余儀なくされたのであった。例えば、席が指定制となり、市民の政治活動の拠点としての特色を持ち始めたのである(7)。このことは、安価なコーヒー代を払いさえすれば自由に様々な議論に参加でき、情報を共有し、それら生活の糧にするという利点を共有していた下層階級の人々が締め出されたということを意味する。まさにコーヒーハウスという共同体が崩壊し、人々の一部が隔離されるという状況がそこから見出されるのである。
 このコーヒーハウスの変遷は市民社会批判の系譜と共通するものがある。つまり、コーヒーハウスという民主的な場所を失った人々の心理的側面と、協同組合、社会福祉、社会教育への希求という人々の関心は通底するものがあるように筆者は捉えている。以上序論として示したような一思考を前提にして、本章の論考を行うことにする。

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アフガニスタンからの来訪者
2009年8月10日(月) 23:01 [ 文化遺産 ]

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 東京文化財研究所で研修中のアフガニスタン人2人が、文化財センターを訪れた。予定では発掘現場へ行く予定であったが、生憎の雨で、急遽、文化財センターへ。そして、偶然開催していた勾玉作りへ飛び入り参加。それが好評で、二人ともかなり真剣に取り組んでいた。午後は、市内にある建造物の修復現場へ。現場監督の専門家が詳細に説明してくれ、これも真剣に聞き入っていた。通訳は同行した研究所の客員研究員が流暢な英語で担当した。コーディネーターの私も所々で会話することも出来て楽しかった。ともあれ、楽しい市内見学だった。併せて、文化財と携わる仕事の意味を感じた。今日来訪した彼らは半年間、日本で様々な研修を行い、アフガニスタンに帰る。そしてバーミヤンを始めとした文化財修復の道へと進み行くことになる。今日がそのための一助になれたら、嬉しい限りである。


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我々は何者か
2009年8月9日(日) 19:52 [ 藝術 ]

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横浜美術館で開催されている「フランス絵画の19世紀」を鑑賞した。
ロマン主義から印象派に至るフランス絵画の歴史は、長い芸術史の中で特筆すべき広さや深さ、更には深さを含んでいる。何故なら、フランスと言う一国を中心にして、アングルなどのアカデミズムやドラクロワなどの絵画に見るロマン主義が隆盛した後、嵐のように別の傾向としての印象派が姿を現しモネやルノアールなどの絵画を生み出したという歴史を、簡単に解釈するわけにはいかない。この時代の絵画史を詳細に示した研究書は多く存在するが、その図録を含めて通史的に、併せて多面的に論証するためには百科全書の程度の枚挙を要するであろう。
このような点を踏まえたとしても、素晴らしい展覧会であった。それは、展示作品のレベルは勿論のこと、その複雑怪奇な歴史の一端を感動的に、そして的確に紹介する意味において、多く投げかけるものがあった。明治以降の日本美術史において重要な意味を為す洋画の基礎を築いた黒田清輝、彼の師であったコランの絵画も展示されており、このフランスの絵画史が遠く離れた東洋日本の美術に影響を与えたということをも気付かせるのであった。アングルを始めとしたアカデミズムや新古典主義の傾向、ロマン主義の絵画の美しき描写主義からは、ギリシア芸術への回顧、旧約聖書への着目が伺え、その思想は私の姿勢を正すほどの威力を持って、問いかけていた。そして印象派の珠玉の作品群は、簡単に表現できないほどのエネルゲイアを受容することができた。これらは私へ多くのインスピレーションを与えてくれたのであった。


続いて、私はもう一つの展覧会へ。

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東京国立近代美術館で開催されているゴーギャン展。
東京駅からのシャトルバスに乗って現地へ。
この展覧会の主たるテーマである言葉。すなわち、
「我々はどこから来 たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。」
D'où Venons Nous / Que Sommes Nous / Où Allons Nous

この壮大な作品の原画を始めて目にしたが、その輝き及び暗さに圧倒されるばかりだった。南太平洋に移住して描かれた多くの絵画からは人々の生命力を感じざるを得なかった。野生に息衝く生命の輝き。まさしくゴーギャンのテーマはそこにあったと思われる。先程のフランス絵画史においては後期印象派に属するゴーギャンであるが、印象派に薄れがちな哲学性や思想性を多分に含む絵画を描いたのであり、その究極の到達点が「我々は」であった。印象派の風景画や静物画にも溢れんばかりの魅力を感じるが、ゴーギャンの進み出た旅路から発せられた絵画における、野生への着目を起点とした思想性ということについても特段の魅力を感じるのだ。ゴーギャンの作品群を眼前にして、またもや進み出るための糧を手に出来たように思う。


その後、恵比寿で食べたのはイタリア料理。
フランスを感じ、南太平洋を目にし、イタリアへ。
世界は奇々怪々ながらも、楽しんで芸術や文化に触れることの出来る喜びが必ず存在する。まさしく、そのことこそが大きな基礎となって、何かを描くという意識が生み出されるのかも知れない。


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実り
2009年8月7日(金) 23:34 [ 生物多様性 ]


失敗して凹んでも、立て直せばいいんだって、
ヘチマとゴーヤーに励まされた。


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ほら、大きくなっていく。

ありがとう。



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