| 夢二と美しき女たち |
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| 2009年11月30日(月) 23:33 [ 文学 ] |
明治39年11月1日、一人の女が絵はがき屋を開店した。小さな店の奥でその美しい女が座っていることを知った一人の青年は以後度々通うようになった。この青年こそ大正ロマンに華々しい才気を放った竹久夢二である。夢二は店に佇む美女「岸たまき」に惚れ、その店に自分で書いた絵はがきを持ち寄るようになった。このことが作家夢二の原点となったと言えよう。夢二の人生は女との出会いが幾度も繰り返された。そして数多く生み出された作品群に影響したことも周知である。また当時、人気を博した夢二はその女性関係をも注目の的とされた。加えて彼との関係を持った数名の女性は全て美貌に溢れていたため、彼の存在を更に幻惑的なイメージへと持ち運んでくれている。私はジャン・コクトーに対するコレットやココ・シャネルの関係性とどこか似ているようで興味を引く。哀愁漂う女の素描。幻想的な詩文。
これらの内実深くに生き続ける「女」の紹介を中心に、人間夢二が辿った道程を散策して行こうと思う。
〈 たまき 〉
本名、岸他万喜。明治15年7月28日に金沢で生まれる。最初に日本画家の嫁となったが死別し上京。早稲田鶴巻町の絵はがき屋「つるや」で店番をしていることを夢二が知る。夢二は以後この店に入り浸るようになるのだが、たまきは長髪で不思議な雰囲気を醸し出していた青年夢二を異様なものとしか思っていなかった。しかし夢二が書いた絵はがきにより店が華やかになってから二人は近付いていく。当時、夢二は22歳。たまきは25歳で既に子供を二人抱えていた。鼻筋が形良く通った目の大きい容貌で店に居ると、早稲田の学生達がはっとして立ち止まるくらいであった。この美形の女に対し夢二は他の若者以上の情熱を捧げていた。たまきに「あなたの肩まで下がる長髪は嫌いよ。」と言われると、翌日には髪を切ってきた夢二がそこには居たのである。そして二人は二ヵ月後に結婚。この頃から「大いなる目の美しい」たまきをモデルとした絵を多数描いた。夢二の絵画世界の広がりは、たまきの美貌があったからなのであろう。三年後には離婚したが、それから六年間の年月は夫婦同然の生活を二人はしていた。一緒に富士登山をしたり、作品展に向け作業を共にしたりなど、二人は決定的には離れられない関係を受持っていたのである。また前夫の子供や長男虹之助に対しても二人は変わらず愛を送り続けていた。
〈 お島さん 〉
本名、長谷川賢。夢二は26歳の時、たまきと虹之助を連れて銚子町海鹿島で一夏を過ごした。この期間に出会ったのが賢であった。肌が白く、瞳の綺麗な文学少女に夢二は胸を躍らせた。そして「お島さん」という渾名を付けた。同行していたたまきの手記には「私どもは銚子に一夏を送りました。あしか島で夢二がまた新しい愛人お島さんを作り出しました。」とある。だが翌年、夢二が海鹿島に戻ると「お島さん」の姿は無かった。この困惑によって有名作「宵待草」が出来上がった。「待てど 暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は 月も出ぬぞいな」の「来ぬ人」とはお島さんなのである。その後数年間、たまきとこの地を訪れているが彼女は現れなかった。後に賢は鹿児島に嫁いだことが分かった。
〈 彦乃 〉
本名、笠井彦乃。東京日本橋にて紙問屋の長女として生まれ、女子美の学生であった。夢二との出会いの地は彼が理想の店として立ち上げた趣味屋「港屋」であった。当時凄まじい人気の夢二であり、その渦の中に十八歳の彦乃もいた。夢二も立ち寄る学生の中でも特別な視線を注いだ少女が彦乃であった。更に、笑うと垣間見られる歯、指先の美しさも夢二を魅了していった。夢二だけで無くたまきも爽やかな少女が直に好きになり、二人の神田千代田町の自宅へよく訪問するようになった。彦乃も夢二への憧れは精神的な恋へと移行していった。この時期、夢二がたまきに対し刃傷沙汰を起こし、二人の破局は決定的になる。だがそれでもすぐ分かれることは無く、彦乃と夢二との関係について次のように語っている。「わたしは、子供のために生きてゆけますわ。あなたの芸術のためには、やはり彦乃さんのような人が必要です。彦乃さんをもらって、みんなで暮らしましょう。」そして笠井家へ突然赴いて、「私の良人に、彦乃さんを頂けませんか。」と申し出したということである。たまきの行動にも驚くが、それ以上に笠井家の動揺は大変なものであった。彦乃の父宗重は怒り、一人娘が外出する自由をも奪った。故、美大への通学も出来なくなり、夢二と面会することは不可能になった。しかしこのことは、二人の恋の意識を一層深いものにさせた。たまきは以上の動態の後、突然奔出し、夢二が22歳から続けてきた生活に幕が下された。夢二もそれを契機に京都に転居したが彦乃への思いは募るばかりであった。たまには上京し彦乃にも会ったが結局京都高台寺に彦乃が転移して、たまきとの次男不二彦を含めて生活するようになった。彦乃の父親には絵の修行ということを名目にして許された。夢二は33歳。その後数年間、彦乃と不二彦を連れ立ち日本各地の湯治場を廻った。その際に彦乃をモデルとした数々の作品が生み出された。夢二は後にこの数年の期間が人生の中で最も充実していたと述べている。しかし二年後、彦乃の父親が京都を訪れ、彦乃を無理に連れ戻してしまう。同時期彼女は肺病に倒れ、父親は夢二との面会を謝絶してしまう。それでも何度か二人は旅行し愛を誓い合っていた。そんな二人にも終幕はあった。彦乃は25歳という若さで死に臥したのである。その時の心境を夢二はプラチナの指輪の裏に認めた。「ゆめ35 しの25」35は夢二がしの(彦乃)と別れた歳であり、25とはしのの没年齢である。夢二は以後幾つになっても35という数字に拘り、彦乃の死以降の時流は止まっているのだと思っていたようである。
〈 お葉 〉
本名、佐々木カ子ヨ。明治31年3月1日に秋田河辺郡に生まれる。父を早く失い、母と共に上京。夢二との出会いはお葉17歳の時、モデルとして「菊富士ホテル」のアトリエに於いてであった。当時、お葉は秋田美人のモデルとしてかなりの人気を博していた。芸術家との親交も深かった。夢二が彦乃の病の件で苛まれていた時期の出会いだった。それから直にお葉は夢二と同棲を始め、夢二はお葉の髪型から着物まで夢二画の様相と同じに仕立てたと言われている。彦乃の死後、二人は渋谷宇田川で所帯を持った。お葉も彦乃と同様に不二彦を伴いよく旅行をした。大正12年、夢二が39歳の晩夏。関東大震災が発生し、図案印刷や出版計画の大半が消滅した。長男虹之助を呼び戻したが創作意欲が涌かないままに生活が苦しくなってきた。そんな生活にお葉も苦しみ精神的な衰弱を催す。そんな時、夢二は松原に「少年山荘」を施工。お葉もその生活には期待があったが、美大モデル時代の恋人との再会を契機に、夢二への気持ちは薄らいでいた。夢二も時折自殺未遂や卒倒するお葉を殺す一歩手前を彷徨っていたと言われている。お葉も察知して、美校で繋がりのあった藤島武二の元へ身を隠してしまう。度々夢二とお葉は少年山荘で再会するが違和感が除かれないままに夢二を離れ、秋田に帰って行く。
〈 山田順子 〉
山田順子は夢二より7歳下で秋田本荘にて生まれた。家庭との不仲によって上京し、徳田秋声に師事した。自作小説『流るゝまゝに』装幀に関して夢二と親交を結んだのが最初の出会いであった。また夢二が少年山荘でお葉と新たな生活を始めようとした時期に順子は訪れた。数日後夢二は順子と上野の旅館で過ごした。そして順子の調子良い言葉に乗らされ、お葉らを残したままで順子の実家である秋田まで旅立った。この夢二の行為によってお葉との困惑は更に深まってしまった。この道中で順子は「お葉さんは籍をお入れになっていないんでしょう。私と結婚できますわねえ。」と繰り返し夢二に迫った。夢二は平然とし秋田への途中で下車し、事を納めようとしたのであるが、順子も下車して夢二から離れようとしなかった。夢二が本荘までには順子と別れようとしても、付いて来るという状況が続き、結局実家に辿り着いてしまった。こうして夢二はたまきや彦乃への優しい感情とは異質のまま、少年山荘で順子と同棲することになった。この事態に対し多方面から夢二に批判が向けられたが、順子との生活は短期間で終った。不二彦と順子は相容れないものがあったようである。お葉が去った後、順子も長く過ごさないままに少年山荘を離れた。
作品と女の関係を概すると、たまきとの前期、彦乃との中期、お葉との後期に大別できるとされている。また創作意欲の塊が表象された前期、芸術性の向上に加えて世界を広げた中期、悲愴や狂乱を含ませた後期とも考えられる。つまり女との生活と諸作品に何らかの因果関係を認めることが出来るのである。彼の内部では、過ぎ去る恋人との時間が余りにも愛しく感じられ、その感情を表現するために夢二は女性の絵を、子供の玩具となる詩を作り続けていったのだろうと私は考えている。
夢二の目の前を通り過ぎていった女たちは何故か魅惑に溢れていた。果敢無い49年間の人生を夢二は女と共に駆け抜けたと言っても過言では無いだろう。長髪の青年の時代から、人気絶頂の時期、世間から離脱していった時期に至るまで夢二は女に対し理想を抱き続けていた。例えば失恋を経験するたびに都会から逃れ、山奥や湖畔、湯治場に篭り絵や詩を創作すると共に、新たな女性に対する理想像を見出していったようだ。そしてその理想を作品への糧にしていったのである。あるいは人間夢二の基底とならしめていたのかも知れない。また当時、厳格な男に従う妻子という形式が社会的通念となっていたが夢二の人間像や作品からは見て取れない。作品色彩も体制的感覚からは逸脱し、人間味が溢れて温か過ぎる位だ。これが沢山の人々に愛された理由のように感じる。時代の流れには従わず、独自の理想郷を求め、その意識を作品に注ぎ込んだ夢二を人は自分の代替と認め、彼自身や輝き放つ作品を愛さずに居られなかったのであろう。
お葉が自分から離れていくことを察知した時、これが自分にとって最後の恋なのではと、今までの道程を振り返り、何とも言えない哀しさに苛まれた夢二がそこには居た。その思いを詩に表している。
『 川 』
はじめ二人を隔てたのは
ほんに小さい川だつた
それを二人は苦にもせずに
両方の岸を歩いてゐた
いつの間にか川は大きくなつた
そしてたうたう越すことの出来ない
大きな川を隔てた
もはや二人のための舟も橋も今はない
どちらかゞ水へ飛び込まねば
二人が逢う時は永久にない。
《参考文献》
・三田英彬著 『〈評伝〉竹久夢二』 芸術新聞社
・岡崎まこと著 『竹久夢二正伝』 求龍堂
・萬田務 監修 『竹久夢二文学館 詩集』日本図書センター
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